JOE COCKER & LORD SUTCH




60年代後期にSUPER SESSIONブームが起こり、有名ミュージシャンが集まったグループ、BLIND FAITH / CROSBY,STILLS,NASH & YOUNGやAL COOPER,MIKE BLOOMFIELDの文字とおりのSUPER SESSIONと並んで無名のミュージシャンのデビューに有名ミュージシャンが参加するアルバムが発売されました。ここに紹介するのは二人の英国のミュージシャンです。
一人目はJOE COCKERです。イングランドサウス・ヨークシャー州シェフィールド出身。公務員の息子として育ち、学校を辞めガスの配管工として働きながら15歳の頃から音楽活動をパブで始める。当初はヴァンス・アーノルドという芸名で活動していた。1964年にデッカ・レコードからデビューするが不発に終わり、シェフィールドにてグリース・バンドとともにライヴ活動を行いブルー・アイド・ソウルな唄いかたやライヴ・パフォーマンスが評判を呼び、1968年にクリス・ステイントンとの共作「マジョリーン」でA&Mレコードから再デビュー。同年にビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」のカバーが全英チャート1位の大ヒット、そしてイングランドのみならずFM放送局を通じてアメリカ、オランダ、ヴェネズエラなどの国で脚光を浴びる。1969年には彼の人気を決定づけたウッドストック・フェスティバルに出演。公開された映画でのエア・ギター・パフォーマンス(本物のギターも弾ける)とパワフルな歌唱でアメリカの聴衆にも強い印象を与えた。またレオン・ラッセルの元制作された2枚目のシングル「Delta Lady」も全英10位を記録する。

英国ではEMI傘下のREGAL ZONOPHONEよりレコードが発売された。REGAL ZONOPHONEからはTYRANOSAURUS REX / MOVE / PROCOL HARUM などがレコードを発売している。
デビュー・アルバムはBEATLESのカバー曲『WITH A LITTLE FROM MY FRIENDS』のタイトルで、内容は素晴らしいとしか言いようがない。参加ミュージシャンはプロデューサーもかねたJIMMY PAGEを始めSTEVIE WINWOOD / MIKE KELLY(SPOOKY TOOTH) / HENRY McCULLOUGH / CHRIS STANTONさらにBEACH BOYS ALL OF MOTOWNともいえる女性ベーシストCAROL KAYE バック・ヴォーカルにはBRENDA HOLLOWAY / MERRY CRAYTONなどが名を連ねる。
曲はTRAFFICの名曲デイヴ・メイソンの作品『FEELING ALRIGHT』から始まり、CHRIS STANTONとの共作『MAJORINE』ディランの『JUST LIKE A WOMAN』アニマルズのヒットでおなじみの『DON'T LET ME BE MISUNDERSTOOD』そしてWOODSTOCKで評判になった『WITH A LITTLE FROM MY FRIENDS』最後はディランの『I SHALL BE RELEASED』で終るという完璧さです。




1970年に再びビートルズの『SHE CAME THROUGH THE BATHROOM WINDOW』のカバー曲をフィチャーしたアルバム『JOE COCKER』が発売された。カバーを中心にしたスタイルでファーストと大差ないスタイルですが、むしろバックの演奏はこちらのほうが良いかもしれません。
『WITH A LITTLE FROM MY FRIENDS』ほどの特大曲はありませんが本作も名曲揃いです。特に出来がいいのはディランのカバー1曲目『DEAR LANDLORD』です。ディラン作品の中ではあまり知られていない曲ですが隠れ名曲的存在でペダルスティールを使ったバックの演奏と相まってオリジナル以上に盛り上がる演奏です。レオン・ラッセルのピアノも大活躍で聴き所となっています。
バック・ミュージシャンは後のMAD DOGS & ENGLISHMENに通じるものでレオン・ラッセルを中心にGREASE BANDの他、ボニー・ブラムレット、リタ・クーリッジのバック・ヴォーカルも目(耳)をひく。曲はレナード・コーエンの『BIRD ON THE WIRE』、レオン・ラッセルの『DELTA LADY』などが秀作です。



選挙に26回出馬し26回落選した英国ロッカーが居る。モンスター・レイブン・ルーニー・パーティー党首。落選ギネス記録保持者「スクリーミン・ロード・サッチ」だ。
1963年の初出馬の得票数は209票。主な選挙結果を見ると1983年は97票。1988年は61票。最後の選挙の1997年は316票。公約は「10代の選挙権確立」「犬の登録制度廃止」「地方ラジオ局開設の規制緩和」などで、当初はまじめに捉えられなかったものの後年には実現した主張もある。ラジオ局の規制緩和の主張にあたり、海上のヨットで海賊放送局(パイレート・ラジオ、60年代にイギリスでは同様の放送局が多く存在した)の「ラジオ・サッチ」を開局して「チャタレイ夫人の恋人」の朗読を延々流したりもした。
また音楽活動も政治活動の一環ととらえており、前述のアルバム「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」でハロルド・ウィルソン首相を非難したり、後年にはマーガレット・サッチャー首相を非難して「アイム・ア・ホッグ・フォー・ユー」の歌詞を「アイム・ア・ホッグ・フォー・マギー」とかえて、豚のマスクを被り便座を首にかけながら歌う、というパフォーマンスも行っている。
サッチ自身は最後まで落選し続けていたものの、党員の中には地方議会の議員に当選した者もいる。イギリス国内において、60年代から90年代にかけて一貫して政党党首の座にありつづけた唯一の政治家でもある。


敬愛するスクリーミン・ジェイ・ホーキンスから「スクリーミン」を頂きサッチは1961年ブリテッシュ・ビート夜明け前というより草木も眠る丑三つ時にド派手なホラー・スタイルでロックン・ロールをぶちかまし衝撃のデビュー。
自分の頭より重たい水牛の角を頭につけたり虎皮の原始人の(?)衣装を身につけグット・ゴリー・ミス・モリーを歌った。動きは鈍いがよく目立った。
バディ・ホリーの命日に自らの命を絶った英国のフィル・スペクターと呼ばれるジョー・ミークのプロデュースで発表した「ジャック・ザ・リッパー」が一生メシのタネになる様なインパクトで大ヒット。お寒い再録デスコVERも有ります。

1970年にアルバム「ロード・サッチ&ヘヴィ・フレンズ」を発表。ハードロック的な演奏に、サッチのボーカルがマッチしているとはいえず、収録曲もロックンロールの改作や、過去のデモテープを使ったものであったが、レッド・ツェッペリン結成直前のジミー・ペイジジョン・ボーナムの参加や、ジェフ・ベックがギターを弾く曲が収録されたことで、スーパーセッション的なアルバムとして捉えられ、イギリスとアメリカでスマッシュ・ヒットとなった。この時のアルバムジャケットでは、ユニオンジャックにペイントされたロールス・ロイスとともに派手な貴族風衣装を着たサッチの写真が使われた。
アルバム「ロード・サッチ&ヘヴィ・フレンズ」の製作時に、参加したジミー・ペイジには名前を出さないと事前に約束していたが、アルバムジャケットでの曲のクレジットをすべて「サッチ/ペイジ」としてしまい、ペイジを唖然とさせた。
同アルバムでのジェフ・ベックの参加曲は過去にベックが参加したデモテープをマスタリングして無理やりベックのギターとニッキー・ホプキンスのピアノの音量を上げている(そのため微かにサックスの音が聞き取られる)。
何といってもペイジ&ボーナムが爆裂する1曲目"Wailling Sounds"と2曲目"'Cause I Love You"そして"Around & Around"の改作"Union Jack Car"。当時でさえやや古臭く感じた(既にツェッペリンを聴いていましたからね)何のギミックも無いストレートなハード・ロックですが(事実この録音は本盤リリースから遡ること2年の68年)、ノド声でわめきたてるロード・サッチのボーカルに王道ロックのギター・リフ、それにドッカン・ドッカンと鳴り響くドラムス。参加ミュージシャンは、JIMMY PAGE / NOEL REDDING / JEFF BECK / JOHN BONHAM / NICKY HOPKINS 他,隠し撮りのようなジミーらの写真撮影者は、Anetto Del Zoppoとは・・・



セカンド・アルバム「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」はライブアルバムとされているが、スタジオでの擬似ライブであるともいわれている(少なくとも効果音等のダビングが施されている)。
出来は明らかにデビュー・アルバムには及ばない。参加ミュージシャンは、KEITH MOON / RITCHIE BLACKMORE / NOEL REDDING / MATTHEW FISHER 他

最愛の母親を亡くした90年代後半から、精神的な落ち込みを見せはじめ、供託金の引き上げも重なったことから、国政選挙への不参加を表明するなど、活動は停滞したといわれている。
そして不幸なことに1999年6月16日、自宅で首を吊り自ら命を断った。サッチの死については、イギリス国内で大きく報道され、多くの国民が彼の死を悲しんだ。現在もモンスター・レイブン・ルーニー・パーティーの創設者として同党の精神的シンボルとなっている。