31回目の曲目

2011年1月1日(土) 15:00〜16:00

A Happy New Year!
今年も皆さんよろしく
新春1回目はSPレコードによる女性歌手特集です。
タミー・・・ デビー・レイノルズ

マイ・ハピネス・・・ コニー・フランシス

ユーアー・フリー・トゥ・ゴー・・・ ルー・ダイニング

アイ・オンリー・ハヴ・ワン・ライフタイム・・・ ルビー・ライト

イフ・アイ・ディドント・ハヴ・ユー・・・ フォンテーン・シスターズ

君待つワルツ・・・ パティー・ページ

雨のオランダ坂・・・ 渡辺はま子

東京ブギウギ・・・ 笠置しず子

情熱の花 ・・・ザ・ピーナッツ

アイ・ガッタ・ライト・スイング・ザ・ブルース・・・ リナ・ホーン

アイム・ゴナ・ファイル・マイ・クライム・・・ マリリン・モンロー

ホエン・ラヴ・ゴーズ・ロング・・・ ジェーン・ラッセルとマリリン・モンロー

アイム・ア・フール・トゥ・ケア・・・ レス・ポールとメリー・フォード


恋は異なもの・・・ ダイナ・ワシントン


1.Tammy・・・Debbie Reynolds
16歳のとき、当時住んでいたカリフォルニア州バーバンクでミス・バーバンクに選ばれ、ワーナー・ブラザーズと契約。ワーナー・ブラザーズの映画2本で端役を演じた後、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約。1950年にフレッド・アステアの映画に出演。その2年後、ジーン・ケリーのミュージカル『雨に唄えば』に抜擢され、それまでタップ・ダンスを踊ったことがないにもかかわらず見事なダンスを見せて一躍スターとなった。
1957年、『タミーと独身者』の中で歌った主題歌「タミー」(Tammy (song))が全米5週連続1位の大ヒットとなり、アカデミー音楽賞にノミネートされる。その後も『年頃ですモノ!』『恋に税金はかからない』『ママは二挺拳銃』などのヒット映画に多く出演し、タイタニック号の生存者で実在のモリー・ブラウンを演じた1964年の『不沈のモリー・ブラウン』ではアカデミー主演女優賞にノミネートされた。また1960年代マネー・メーキング・スターの5位に2度選出されるなど、人気女優の一人として長い期間活躍した。
3度結婚しており、最初の夫であった歌手のエディ・フィッシャー(Eddie Fisher)との間の娘は女優のキャリー・フィッシャーである。
1990年にはデビーとキャリーをモデルにした映画『ハリウッドにくちづけ』が製作され、シャーリー・マクレーンメリル・ストリープが出演した。

2.My Happiness・・・Connie Francis
11歳の頃からショーに出演し、1955年に「Freddy」で歌手デビューしたが、しばらくヒット曲は出なかった。1958年にリリースされた「Who's Sorry Now?」が大ヒットしてからは、1960年代前半にかけてヒット曲を連発。1961年には「Together」がヒットし、『ビルボード』誌のアダルト・コンテンポラリーのシングルチャートで女性として初めて1位を獲得した。1958年2月発売。ビルボード最高4位。自身初のミリオンセラー。モノラル録音。なかなかヒットに恵まれず、歌手を辞めようかと思っていたが、大好きな歌をどうしても捨てることができなかった。「とりあえずもう1枚レコードを出し、それがヒットしたら歌手を続け,ヒットしなかったら歌手を辞めよう」と考え、最後の1枚のつもりで出したのが、この「フーズ・ソリー・ナウ」であった。この曲が無ければ、後年の大スター“コニー・フランシス”も無かった。まさに、彼女の人生を変えた曲である。

此の作品は、ベティ・ピーターソン・ブラスコ作詞、ボーニー・バーゲンティン作曲で1933年に作られた曲のカヴァーである。此の曲が有名になったのは、1948年5月、ジョン&ソンドラ・スティールのヴァージョンが全米3位に入ったのが最初で、その後、パイド・パイパーズが1948年5月、全米4位に、エラ・フィッツジェラルドが1948年11月、全米8位に、マーリン・シスターズが1948年7月、全米24位に夫々入っている。それをカントリー・フレイヴァーを上手く取り入れ、ロックのバラード・ナンバーにカヴァーしたのが、コニーのヴァージョンで、彼女の切ない1人2重唱やサビの艶っぽい熱唱がロマンティックな歌詞と相まって、此れまでの彼女の曲の中で、最も大きな成功を収めた楽曲である。全米2位の他、全英4位に入っている。1978年と1989年に再録音されている。
パット・ブーンエルヴィス・プレスリーファッツ・ドミノ、マクガイア・シスターズ、マーティ・ロビンスフランク・シナトラアンディ・ウィリアムス等、数多くカヴァーされている。

3.You're Free To Go・・・Lou Dinning
ルー・ダイニングはドン・ロバートソンの夫人です。ドン・ロバートソンはカントリーの作品をたくさん作り、レス・ポール&メリー・フォードの『ハミングバード』『本当に知りたくないの』などの作品があります。ルー・ダイニングはダイニング・シスターズの一員として13年間活躍しましたが、ドン・ロバートソンと結婚して独立してうたい始めました。
『ユーアー・フリー・トゥ・ゴー』は二人の共作ですが、ゆったりとした見事なワルツで和みます。

4.I Only Have One Lifetime・・・Ruby Wright
1914年生まれ、2004年没、米国インディアナ州出身、大学時代トリオを結成するも米国では全くヒットせず、英国に渡り、彼の地で54年に"Bimbo"でチャート7位、59年 "Three Stars"をカバーして19位を記録した。

5.If I Didn't Have You・・・The Fontane Sisters
ニュージャージー州ミルフォード出身、マージ+ビー+ジェリ・ロッセ姉妹による、国民的女性ポップ・ボーカル・トリオ「ザ・フォンテーン・シスターズ」。



6.Changing Partners・・・Pattie Page
パティ・ペイジ(Patti Page、本名:Clara Ann Fowler、1927年11月8日 - )は、アメリカ合衆国の歌手。アメリカのスタンダード・ポップスを代表する女性歌手の一人である。オクラホマ州 Claremore 出身(Muskogee とする資料もある)。1950年代に女性アーティストとして最も多くのレコード売り上げ枚数を記録しました。
クララ(後のパティ・ペイジ)は大家族の貧しい家に生まれました。父親は線路工夫として働き、母親と姉妹は綿花摘みをして生計を立てていました。後年彼女がテレビで語ったところによると一家は電気もなく暮らし、日が暮れると本を読むこともできなかったという。クララは18歳の時にオクラホマ州 Tulsa のラジオ局、KTUL の15分番組に歌手として出演するようになりました。この番組のスポンサーがペイジ乳業であったために、クララはパティ・ペイジと名乗るようになりました。

1946年、サックス奏者でバンドのマネージメントを手がけていたジャック・リール (Jack Rael) が一夜限りのライヴのため Tulsa を訪ねた際、たまたまラジオで耳にしたペイジの歌が気に入って、当時手がけていたジミー・ジョイ・バンドへの加入を持ちかけました。しかし結局は両者ともこのバンドを離れ、リールはペイジの個人マネージャーとなり、彼女の多くの録音で伴奏オーケストラのリーダーを務めました。

1947年、ペイジは「Confess」という、他の歌手による返答のパートを含む歌を録音した(この歌はほかにドリス・デイとバディ・クラークによるデュエットのバージョンによっても知られる)。
彼らには別の歌手を起用するだけの予算がなかったため、リールはペイジにこのパートも自身で歌うよう進言した。おそらくは一つのレコードにおいて二つのパートを歌うという目新しさも相俟って、この歌はチャートの20位に入るヒットを記録した。

当時のマーキュリー・レコードではミッチ・ミラー(Mitch Miller、後にコロムビア・レコードで同社を1950年代のポピュラー音楽における支配的な地位にまで押し上げた手腕でも知られる)がA&Rを務めていた。「Confess」の録音後、ペイジ(若しくはリール、或いはその両方か)は一人での多重唱というアイディアがすっかり気に入り、一曲全てを四重唱として歌いたいと申し出た。ミラーはこれに懐疑的だったとされるが最終的には許可し、ペイジ一人の四重唱によって録音された「With My Eyes Wide Open I'm Dreaming」は大ヒットとなり、彼女にとって初のミリオンセールスを記録した。メアリー・フォード (Mary Ford) やジェイン・タージー (Jane Turzy) もこの手法を用いていたことが知られるようになったが、ペイジこそは一つの楽曲(「Confess」において)で多重録音の手法を用いた最初の歌手である。彼女のいくつかのレコードでは "Vocal by Patti Page, Patti Page, and Patti Page" とクレジットされており、特に「With My Eyes Wide Open I'm Dreaming」には "The Patti Page Quartet" と表記されている。

ペイジが最初にヒット・チャートの1位を記録したのはモーリス・ラヴェルボレロを翻案した「All My Love」だった。この曲は1950年に5週間にわたって1位の座にあった。彼女の最大のヒット曲は同じく1950年にリリースされた「テネシーワルツ」である。この曲は同年に13週間にわたって1位の座にあり、累計売上げ枚数は600万枚に達しビルボード誌のヒット・チャートで1950年代最大のヒットを記録した。

7.雨のオランダ坂 渡辺はま子

横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡辺は美貌で知られた歌手であった。祖父がアメリカ人のクォーターであった。

「昭和の歌姫」というと美空ひばりを指すことが多いですが、渡辺はま子は昭和40年代頃までは「昭和の歌姫」と呼ばれていました。数々のヒット曲もさることながら、その数奇な人生にもよります。
昭和11年最初の「忘れちゃいやヨ」の♪ネェ♪が戦雲急な時代の軍部の怒りを買い発禁、後、「ああそれなのに」などの「ネェ小唄」につながり、ひはんされる。以来戦争の時代は「愛国の花」「シナの夜」「何日君再来」「蘇州夜曲」など宣撫・シナものを歌い、戦地慰問の途中敗戦で一年間収容所生活を強いられたのに、戦後民衆からは翼賛歌手とされるなど、時代に翻弄されました。その中で、この昭和22年の「雨のオランダ坂」の大ヒットは、はま子自身や古関裕而を救うとともに、民衆の渡辺はま子に対する認識を変え、これが「桑港のチャイナタウン」「ああ、モンテンルパの夜は更けて」のエピソードに繋がることとなります。

8.東京ブギウギ 笠置しず子

服部良一作品でジャズ歌手としてデビューするが、派手な身振りが官憲ににらまれ、1939(昭和14)年、丸の内の劇場への出演を警視庁から禁止(笠置の舞台上の雰囲気が問題にされ、敵性歌手として弾圧)されるが、同年『弥次喜多大陸道中』に映画初出演する。戦争の影響から松竹樂劇団が解散してからは、「笠置シズ子とその楽団」を結成して軍隊への慰問活動などを行う。
戦後、1945年11月、東京・有楽町の日本劇場(日劇。現マリオンビル)のショーに出演、1947(昭和22)年の服部良一作曲の『東京ブギウギ』が大ヒットし、その持前の自由奔放なアクションは、戦後の荒廃した庶民の心に明るさと開放感をもたらし、かつ復興への勇気を与えた。
1947年6月、32歳の時恋人との間に女児を授かるが、その数日後に恋人が病死する。自伝「歌う自画像」(1948年9月刊・北斗出版社)で、「わずか10日の間に最愛の人を失い、最愛の子を儲けた人生の哀歌の極致を語る」と記した。

9.情熱の花 ザ・ピーナッツ

「情熱の花」(じょうねつのはな)は、1959年にザ・ピーナッツの歌唱で日本で発表された外国カヴァーの楽曲である。この曲はベートーヴェンの「エリーゼのために」のメロディをアレンジの上で使用している。元来はヨーロッパの歌手であったカテリーナ・ヴァレンテ(Caterina Valente)が「Tout L'Amour (PASSION FLOWER)」の題名で歌唱していたものであったが、1959年にザ・ピーナッツがカヴァーの上で日本語に訳詞されたものを発表した。

歌詞は「ララララー…小さな胸に」より始まるものと、「ララララーラー…私の胸に」で始まるものとの合計2種類が存在している。どちらも発表された1959年に作成されたものである。レコードに収録されたものは前者の歌詞のものが多かったが、同年に発表された同名の映画や第10回NHK紅白歌合戦では後者の歌詞で歌われた(1960年代後半以降、晩年は後者の歌詞で歌唱した回数の方が多い)。なお、日本語訳の歌詞を2種類作成した意図等については現在に至るまで明らかにされていない。


10.I Gotta Right To Sing The Blues・・・Lena Horne

1917年6月30日ニューヨーク、ブルックリン生まれ。ハーレムのコットン・クラブでコーラス・ガールを務めた後、ノーブル・シルス楽団に歌手として参加。40年にはチャーリー・バーネット楽団に入り人気を博した。
NBS放送のジャズ番組『ローア・ベイズン・ストリート室内楽教会』で人気を博しスターとなった。多くの映画やミュージカルでも活躍し、代表作は『ジャマイカ』(57年)。ミシェル・ルグランとの「シェルブールの雨傘」は最も有名、27年にわたるある男女の愛の行方を描くブラック・ミュージカル。製作はウィリアム・ルバロン、監督はアンドリュー・L・ストーン。ジェリー・ホーウィンとシーモア・B・ロビンソンの原作を基に、脚本はフレデリック・J・ジャクソンとテッド・コーラーの共同、脚色はH・S・クラフト、撮影はレオン・シャムロイ、音楽はエミール・ニューマンとベニー・カーターが担当。出演はリナ・ホーン、ビル・ロビンソンほか。


11.I'm Gonna File My Claim・・・Maryln Monroe

マリリン・モンロー(Marilyn Monroe, 1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。本名ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jeane Mortensen)、その後改名してノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jeane Baker)。1950年代中盤から現在に至るまで「アメリカのセックスシンボル」と称される。モンローというステージネームは彼女の母親の姓である。
身長166.4cm 体重53.5kg B94 W61 H86、トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。フェラガモに作らせた靴のサイズは、24.5cm。ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の髪の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。

1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年『ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。
1954年1月14日、元野球選手のジョー・ディマジオとサンフランシスコ市庁舎で結婚。2月1日、読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねてパンアメリカン航空ボーイング377で日本を訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けた。野球の仕事を兼ねていたディマジオは、滞在中忙しく外へ出かけることが多かった。野球に興味のなかったモンローは宿泊先の帝国ホテルで待つ日々が続いた。そんな折、朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。暇を持て余していたモンローに断る理由はなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。モンローはヘリコプターに乗り、ジープや戦車を乗り継いで駐屯地を回り、多くの兵士たちを前にして歌った。

12.When Love Goes Wrong・・・Jane Rassell & Maryln Monroe

紳士は金髪がお好き』(Gentlemen Prefer Blondes)は、1953年にアメリカで公開されたコメディ・ミュージカル映画アニタ・ルースの原作を元にしたミュージカルのための戯曲が元になっている。

13.I'm A Fool To Care・・・Les Paul & Mary Ford
レスター・ウィリアム・ポルスファスは1915年、ウィスコンシン州ワカシャーでプロシャ系ユダヤ人のジョージ・ポルスファスおよびイヴリン・ポルスファス夫妻の間に生まれる。
ファミリーネームは母親によってポルファス (Polfuss) と簡略化された。彼は後にレス・ポールという芸名を使用することとなり、また「Red Hot Red」というニックネームを使用した。

ポールは8歳のときに初めて音楽に関心を持ち、ハーモニカの演奏を始める。バンジョーを習った後、ギターを弾き始める。エディ・ラングやジャンゴ・ラインハルトなどに影響を受け、13歳までにカントリーミュージックセミプロ・ギタリストとして演奏活動を行っていた。17歳の時にルーブ・トロンソンのテキサス・カウボーイズと共に活動し、間もなく高校を落第する。彼はミズーリ州セントルイスのラジオ局 KMOX のバンド、ウォルバートンズ・レディオ・バンドに加入した。サニー・ジョー&ルバーブレッド(当時のレス・ポールのステージ名)のコンビを1930年代初期に結成。シカゴ中心に人気を得る。1933年に解散。この頃昼はルバーブ・レッドとしてラジオショーなどに出演、夜は本名でジャズグループに参加していた。
1936年、ジム・アトキンスとアーニー・ニュートンとトリオを組み初めてのレコードをリリース。
1941年、レス・ポールは新しいエレキギター「THE LOG」を作成した。ソリッドボディのエレキギターの原型とも言える代物である。レオ・フェンダーが作成したブロードキャスターに影響を与える。他にもヘッドのないアルミニウムボディの「ヘッドレスワンダー」を開発している。
1946年、THE LOGのアイディアをギブソン社に持ち込んだが一蹴される。この頃自宅に録音スタジオを建設し様々な発明をする。レコードのカッティングマシーンを自作したり、多重録音を可能にしたり、アナログディレイマシンの原型などである。これらの施設は当時最先端の技術を擁しておりミュージシャンに好評を博した。
1948年、世界初のオーバーダビングレコーディングで作られた「Lover/Brazil」をリリース。1月26日に交通事故であわや右腕を切断かという大怪我を負うが、1年のリハビリ生活の後奇跡的に復帰(リハビリ中にもリード・パートを除いた全てをレコーディングしリリースするという離れ業を見せている)。
1949年、12月、メリー・フォードと3度目の結婚をする。Les Paul & Mary Ford At HomeというTVショーは7年も続くほど好評を得た。
1951年、メリー・フォードとのデュオ「How High the Moon」が全米1位を獲得。
1952年、ギブソン社初のソリッドギターレスポールが発売される。アンペックスからレスが開発した世界初の8トラック・テープレコーダーが発売される。
1953年、「Vaya Con Dios」が世界的にヒット。9週連続でチャートトップを記録する。しかし50年代半ばからロックン・ロールが爆発的に普及し徐々に人気を失う。
1962年、ギブソン社との契約が切れる。人気の低迷と共にメリー・フォードとの仲も上手くいかなくなりやがて離婚する。
1970年、友人の悪戯により耳の鼓膜が破れ、治療に3年を要する。
1974年、現役復帰。
1976年、チェット・アトキンスと作成した「チェスター&レスター」で1977年グラミー賞を受賞。
1980年代半ばから90年代まで、ニューヨークのファット・チューズデイというクラブでトリオを率いて毎週演奏した。
2005年、6月9日に90歳を迎えたレスを祝しオムニバスアルバム「レスポール・アンド・フレンズ」が作成される。参加メンバーは、エリック・クラプトンジェフ・ベックジョー・ペリー、ビリー・ギボンズピーター・フランプトンスティーヴ・ルカサーキース・リチャーズ、スティング、リッチー・サンボラ、リック・デリンジャー等々。
2007年、レスポールの経歴を描くドキュメンタリー映画レス・ポールの伝説」が2007年7月11日に公開される。(米) (日本での公開は、2008年8月23日)
2009年8月13日、肺炎によりニューヨークの病院にて94歳で死去。

14.What A Diffrence A Day Makes・・・Dinar Washington
「恋は異なもの」の邦題でも知られる曲で、原曲はメキシコの女流作曲家、グレヴェールの作品で、34年にアメリカのドーシー・ブラザーズが取り上げヒットさせた。その後、59年にダイナ・ワシントンが取り上げ、全米8位を記録する大ヒットとなり、彼女の代表曲にもなった。また75年にはエスター・フィリップスがデイスコ・タッチのアレンジでカヴァーし、これも全米20位のヒットとなった。

 日本では、テレビ・コマーシャルでも使われて、意外におなじみの3連のメロディーです。
 さて、この曲の日本語タイトルは「縁は異なもの」ですが、これは名訳というべきでしょうか?それとも迷訳というべきでしょうか?
What a defference a day makes
これを何と翻訳するか・・・そのまま「ホワット・ア・ディフェレンス・ア・デイ・メイクス」では長すぎるし、意味もわかりません。
やはり邦題が必要です。直訳すれば「一日で何という違いでしょう!」でしょうか?そこに出てきたのが「縁は異なもの味なもの」でした。「あなたに逢って、たった一日でこんなにも変わってしまった・・・・」つまりこれも何かの「縁」じゃないか?
とにかく「縁は異なもの」・・・う〜ん、合っているようないないような、微妙な感じもありますね。でも、この訳は、やはり「名訳」といって良いんじゃないでしょうかね?

また、この曲は映画でも使われ、1955 (昭和30) 年に公開された 『 The Racers 』 の挿入歌でもあります。他、1995年に大ヒットした映画 『 マディソン郡の橋 』 でもこの曲が流れました。4日間の大人の恋を描いたこの映画のストーリーにぴったりです。
まさに、縁は異なもの、味なもの...

SPレコードは、蓄音機で再生される音域の狭いシャリシャリ音が当たり前で、単に回顧的なものと思われていますが、正しい再生装置で再生するとCDやビニール盤よりもリアルに音楽を聴くことが可能です。材質のシュラックによる差や再生回数による劣化は拭えませんが見事な発明品です。
私のSPレコード再生装置
プレーヤー ・・・CEC ST-930
カートリッジ・・・DENON DL-102SP他
プリアンプとパワーアンプ・・・QUAD QC-2+Ⅱ
スピーカー・・・MITSUBISHI Monitor 2S-205