83回目の曲目

エリック・クラプトン特集です。

3月30日に、満70才になったクラプトン。当初、70才になったら引退すると発言していたのに、今月14日から、ロイヤル・アルバート・ホールで、アニバーサリー・ライヴをなんと、7回開催するということです。
果たして、どんなバック・メンバー、セット・リストになるのか、非常に気になるところです。
そこで今日は、クラプトンにライヴでまた演奏してもらいたい曲を選んでみました。

1.ビハインド・ザ・マスク
2.フォーエヴァーマン
3.ベル・ボトム・ブルース
4.ホリー・マザー
5.ノー・アリバイス
6.ノッキン・オン・ヘヴンス・ドアー
7.ホワイト・ルーム
8.エイント・ノーバディー・ビジネス



1.ビハインド・ザ・マスク

元々、キーボード・プレーヤーのグレッグ・フイリンゲインズの、ソロアルバムに収録されていたナンバーで、クラプトンは、そのアレンジを気に入り、アルバム AUGUSTで取り上げ、Top of the Popsの出演をもたらすほどの大ヒットになりました、クラプトンにとってはかなり異色の作品と言えます。
Behind The Mask ( R.Sakamoto, Jackson )

2.フォーエヴァーマン

85年発表の、アルバムBehind The Sunからのシングル・カット第一弾プロデューサーにフィル・コリンズを迎え、完成したもののワーナーからダメ出しを食らい、テキサス出身のソングライターである、ジェリーウイリアムスを紹介され、ワーナーからレコーディングするよう強制されたナンバー。この曲が加わった事により、アルバム自体もゴールド・ディスクを記録。またクラプトンにとって、初めてビデオクリップも制作された、キャッチーなナンバー。
Forever Man ( Jelly Williams ) Roomful Of Blues


3.ベル・ボトム・ブルース

クラプトン作のナンバーの中でも、最もカルト的な人気を誇るロマンティックなナンバー。人気の高いナンバーの中でも、ライヴでの演奏回数が一番少ないかと…!
Bell Bottom Blues ( Clapton ) Roomful Of Blues


4.ホリー・マザー

86〜7年のステージでは、決まって感動を呼ぶナンバー。
クラプトンが自分の母親をイメージして書いた歌詞は、彼の書いたどの歌詞よりも胸に迫るものがあり、すすり泣くギターソロも実によく合っている。クラプトンが最も影響を受けた、ザ・バンドのメンバーでこの年に自殺したリチャード・マニュエルに捧げられた。
?Holy Mother ( Clapton,S.Bishop ) Civic Banque


5.ノー・アリバイス

89年に、ニューヨークでレコーディングされたアルバムJourneymanからの強力なアンセム風ナンバー。
この時期も、やはりソングライティングに悩んでいたクラプトンは他人の楽曲に頼るしかなく、behindthesunでお世話になった、ジェリー・ウイリアムスの楽曲から実に、5曲選びました。
この曲のレコーディングに、ダリル・ホールがバック・ボーカルで参加しており90年4月の、マジソン・スクエア・ガーデンでのライヴに、彼がこの曲で飛び入り出演しています。
No Alibis ( J.Williams ) Touring Forever



6.ノッキン・オン・ヘヴンス・ドアー

ボブ・ディランが、映画 ビリー・ザ・キッドのサウンド・トラック用に書き下ろした曲。2004年に、「ローリング・ストーン」誌が選んだローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では、190位にランクされている。
クラプトンは、75年にシングルとしてリリース(38位 イギリス)
Knockin’ On Heaven’s Door (B.Dylan) Touring Forever


7.ホワイト・ルーム

伝説のバンド、クリームの名曲。クラプトンのソロは、何かにとり憑かれれているようで、一心不乱なワウ・プレイの威力は破壊的である。
ライヴでは、もう10年以上プレイしていません!
?White Room ( J.Bruce) Standing In The Shadows


8.エイント・ノーバディー・ビジネス

ポーター・グレインガー&エヴァレット・ロビンス作のこの曲は1923年4月26日に『'Tain't Nobody's Bizness If I Do』というタイトルで、ベッシー・スミスClarence Williamsのピアノ伴奏のみで録音しました。
この曲は、ちょっと小洒落れたブルースでどちらかというと、ジャズの要素も少し含んだようなブルースマンに好まれる傾向にあります。BB・キング、フレディ・キング等、モダン・ブルースマンと呼ばれる人たちがカバーしている。クラプトンは、ベッシー・スミスのバージョンでカバーしてます。
Ain’t Nobody’s Business (ボーター・グレインガー&工ヴァレット・ロビンス) Into The Fire

82回目の曲目

第6回になるビートルズがカバーしたオリジナル曲特集です。
ビートルズBBCでの演奏です。音は悪いです。マスターテープは廃棄されています。





1.ラヴ・イズ・ストレンジ・・・ ルーサー&リトル・エヴァ
2.キープ・ユア・ハンズ・オフ・マイ・べイビー・・・ リトル・エヴァ
3.キープ・ユア・ハンズ・オフ・マイ・べイビー・・・ ビートルズ
4.トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス・・・ チャック・ベリー


5.トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス・・・ ヤードバーズ
6.トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス・・・ ビートルズ
7.ヒッピー・ヒッピー・シェイク ・・・チャン・ロメロ
8.ヒッピー・ヒッピー・シェイク ・・・スインギン・ブルージーンズ
9.ヒッピー・ヒッピー・シェイク・・・ ビートルズ
10.ツイスト・アンド・シャウト・・・ トップ・ノーツ
11.ツイスト・アンド・シャウト・・・ アイズレー・ブラザーズ
12.ツイスト・アンド・シャウト・・・ ビートルズ
13.ロング・トール・サリー・・・ リトル・リチャード
14.ロング・トール・サリー・・・ ビートルズ
15.蜜の味・・・ ボビー・スコット
16.蜜の味・・・ レニー・ウェルチ
17.蜜の味・・・ ビートルズ





1.ラヴ・イズ・ストレンジ・・・ ルーサー&リトル・エヴァ



2.キープ・ユア・ハンズ・オフ・マイ・べイビー・・・ リトル・エヴァ

3.キープ・ユア・ハンズ・オフ・マイ・べイビー・・・ ビートルズ



デビュー曲は「ラヴ・ミー・ドゥ」で、英国で1962年10月5日にリリースされましたが、BBCに最初に出演したのは62年3月8日です。2回目は62年6月15日です。レコード・デビュー前はこの2回だけです。マネージャーのブライアン・エプスタインの努力によるものと思います。
1963年1月26日放送の音源です。「キープ・ユア・ハンズ・オフ・マイ・バイビー」という曲です。日本題は「私のものよ」といいます。この曲は、ジェリー・ゴフィンとキャロル・キングの曲でリトル・エヴァがヒットさせました。リトル・エヴァは1962年に「ロコモーション」でデビューしていますが、実はそれ以前にルーサー&リトル・エヴァの名義で「ラヴ・イズ・ストレンジ」というミッキー&シルヴィアが1956年にヒットさせた曲のカバーでデビューしています。最初から脱線しますが、いい機会ですので、ルーサー&リトル・エヴァの「ラヴ・イズ・ストレンジ」も紹介します。




4.トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス・・・ チャック・ベリー



5.トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス・・・ ヤードバーズ



6.トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス・・・ ビートルズ

1963年3月16日の音源からです。1956年のチャック・ベリーのヒット曲です。「トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス」という曲です。この曲はクラプトンがヤードバーズ時代の曲として有名です。


7.ヒッピー・ヒッピー・シェイク ・・・チャン・ロメロ



8.ヒッピー・ヒッピー・シェイク ・・・スインギン・ブルージーンズ




9.ヒッピー・ヒッピー・シェイク・・・ ビートルズ

「ヒッピー・ヒッピー・シェイク」という曲です。チャン・ロメロはメキシカンインディアンとアメリカンの間に生まれたロッカーです。この曲は英国でヒットし、スインギン・ブルージーンズのヴァージョンが日本でもヒットしました。もろコピーですが、ロメロ・ヴァージョンがより凄まじい迫力があります。


10.ツイスト・アンド・シャウト・・・ トップ・ノーツ



11.ツイスト・アンド・シャウト・・・ アイズレー・ブラザーズ



12.ツイスト・アンド・シャウト・・・ ビートルズ


ビートルソングとして認識されている曲だが、アイズレー・ブラザーズのヴァージョンをカバーしているのは広く知られている。
オリジナルはトップ・ノーツというグループで、プロデューサーはフィル・スペクターだ。フィルは当時、ジェリー・レイバー&マイク・ストーラーの見習いをやっていて、この曲をプロデュースして『音の壁』的レコーディングしたが、作者のバート・ラッセルは気に入らなかった。バート自身がプロデュースしてアイズレー・ブラザーズに歌わせ1962年に全米17位のヒットになる。
アイズレー・ヴァージョンはラテン的陽気さを感じるが、トップノーツ・ヴァージョンはすでにフィルの狂気を伺わせる仕上がりだ。


13.ロング・トール・サリー・・・ リトル・リチャード




14.ロング・トール・サリー・・・ ビートルズ


リトル・リチャードがニューオリンズの J&M スタジオで録音、1956年3月にスペシャルティ・レコードからリリースされた。本作は19週に亘ってリズム・アンド・ブルースのチャート入りし、6週間に亘って1位の座を獲得した。
1966年のビートルズ日本公演において前座として出演したザ・ドリフターズが演奏した曲でもある。リード・ヴォーカルは仲本工事であった。


15.蜜の味・・・ ボビー・スコット



16.蜜の味・・・ レニー・ウェルチ



17.蜜の味・・・ ビートルズ


オリジナルはボビー・スコットで元々、英国の女優Shelah Delaneyのために書いた曲で、小説『A Taste Of Honey』の映画化により広く知られる。
ビートルズは1962年のレニー・ウェルチのヴァージョンをカバーしている。レニー・ウェルチは声質から白人と思われるが、黒人である。
日本ではハーブ・アルパートのヴァージョンとそれをカバーしたベンチャーズのヴァージョンがヒットした。

81回目の曲目

日本のGS特集です。


1.メイクアップ・・・フラワー・トラヴェリン・バンド
2.ユア・ベイビー・・・寺内タケシとブルー・ジーンズ
3.涙のゴー・ゴー・・・エミー・ジャクソン
4.愛しのジザベル・・・ゴールデン・カップス
5.銀色のグラス・・・ゴールデン・カップス
6.恋はもうたくさん・・・ダイナマイツ
7.朝まで待てない・・・モップス
8.ラスト・チャンス・・・内田裕也とフラワーズ
9.あなたが欲しい・・・ハプニングス・フォー
10.恋いよ、恋いよ、恋いよ・・・タックスマン
11.バック・イン・ザUSSR・・・パワーハウス
12.白いサンゴ礁・・・ズー・ニー・ブー



1.メイクアップ・・・フラワー・トラヴェリン・バンド

1973年にリリース、1977年、日立のテレビのCMソングに彼らの曲が採用され再び注目が集まった。

2.ユア・ベイビー・・・寺内タケシとブルー・ジーンズ

1965年に発表、リバプールサウンド時代到来を予期して作詞は安井かずみ加瀬邦彦が作曲したボーカル曲、後に加瀬がザ・ワイルドワンズでカバーする。
日本初のGS曲。

3.涙のゴー・ゴー・・・エミー・ジャクソン

1965年(昭和40年)4月に和製ポップス第1号となった大ヒット曲「涙の太陽」でデビューしたエミー・ジャクソン。
その後もCBSコロムビアの洋楽レーベルから日本人が制作した画期的な洋楽風のオリジナル作品が続いてリリースされた。彼女の通算第4弾シングルとして発売された「涙のゴーゴー」は、当時はやりのゴーゴーをタイトルとした和製ポップスR&Bナンバー。バック演奏を担当したのはジャッキー吉川ブルーコメッツ


4.愛しのジザベル・・・ゴールデン・カップス

1967年6月15日に発売されたザ・ゴールデン・カップスのデビュー曲である。
1966年12月3日、上記5人のメンバーで「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」としての活動をスタートさせる。

5.銀色のグラス・・・ゴールデン・カップス

1967年11月15日に発売されたザ・ゴールデン・カップスのグループ2枚目のシングル曲である。

6.恋はもうたくさん・・・ダイナマイツ


1967年11月に、シングル「トンネル天国」でデビュー。大きなヒットには恵まれなかったものの、R&Bを主体とした演奏が人気を博し、山口冨士夫の卓越したギターテクニックもあいまって、玄人好みのバンドとして一部では熱烈な人気を博した。

7.朝まで待てない・・・モップス

1966年、埼玉で星、三幸、村上、スズキ幹治の四人によりインストゥルメンタルバンド「チェックメイツ」として結成。そこへスズキ幹治の実兄である鈴木ヒロミツがボーカルとして加わり五人組バンドとして本格的な活動が開始された。

8.ラスト・チャンス・・・内田裕也とフラワーズ

内田裕也とザ・フラワーズは、1967年に結成されたグループ・サウンズ、ニュー・ロックのバンド。1970年にメンバー再編でフラワー・トラベリン・バンドヘ展開した。
レコード・デビューについては、1967年末に加瀬邦彦(ワイルド・ワンズ)作曲の「愛するアニタ」をレコーディングする計画があったが立ち消えた。
1968年中頃、日本コロムビアと契約する。内田が自由にレーベル不干渉のアルバムを一枚制作する代わりに[4]、井上忠夫によるジャッキー吉川とブルー・コメッツが発売しなかった2つの楽曲を2枚のシングル盤で制作発売することが条件となった。


9.あなたが欲しい・・・ハプニングス・フォー

福岡市博多で1964年に結成されたラテンロックバンド「サンライズ」が前身。1967年に、シングル「あなたが欲しい」でデビュー。

10.恋いよ、恋いよ、恋いよ・・・タックスマン


タックスマンの”恋いよ恋よ恋よ”のオリジナルはJESS & JAMES ベルギーのビートポップデュオの名曲一発ヒットです。
メンバーに上月ジュン(現小林ジュン)がリード・ギターでいたが、後にフラワー・トラン¥ヴェリン・バンドのベースとなる。

11.バック・イン・ザUSSR・・・パワーハウス

パワーハウスは横浜出身のグループで、本作は69年に日本の東芝EMI/エクスプレスからリリースされた唯一のアルバムである。メンバーは、陳信輝、竹村英司、柳ジョージ、野木信一の4人編成で、日本初の本格的ブルース・ロック・バンドだった。ビートルズジミ・ヘンドリックス、クリーム、ウィリー・ディクソン、ヤードバーズ等々、全曲著名ナンバーのカヴァーではあるが、ビートルズの2曲はかなりブルージーなアレンジだし、全体に重厚なインプロも交えたヘヴィネスが漂っており、陳の弾きまくるギターや、柳の太いグルーヴィなベースと粘っこいボーカル、野木の堅実だがツボを押さえたハードなドラム等々が、わりと素直にカッコいい好盤である。この後、陳はフードブレイン、スピード・グルー&シンキへ、柳はストロベリー・パスゴールデン・カップス等々を経て柳ジョージ&レイニー・ウッドを結成。また、竹村はパワー・ハウス・ブルース・バンドを経てベイサイド・ストリート・バンドを結成する。


12.白いサンゴ礁・・・ズー・ニー・ブー

ズー・ニー・ヴー(Zoo Nee Voo)は、日本のグループ・サウンズバンド。日本コロムビア→キャニオン所属だった。 1968年春に結成し、1971年解散。結成当時は「ZOOM BOOM 5」という名前だった。
代表曲は2枚目のシングル「白いサンゴ礁」。この曲は当初B面だったが、ヒットしたため後年に発売された再発盤ではAB面が逆になっている。
4枚目のシングル「ひとりの悲しみ」は、改詩改題して尾崎紀世彦が歌った「また逢う日まで」の元歌として有名

80回目の曲目

アコースティックなブルースの特集です。





1.Key To The Highway・・・Jazz Gillum
2.What's That Smells Like Fish・・・Blind Boy Fuller
3.Whisky Head Woman・・・Tommy McClennan
4.Come On In My Kitchen・・・Robert Johnson
5.Crying Won't Help Me・・・Tampa Red
6.Playin' Myself The Blues・・・Cecile Gant
7.Strut That Thing・・・Cripple Clarence Lofton
8.Pine Top's Boogie Woogie・・・Pine Top Smith
9.She Loves So Good・・・Frankie Half Pint Jaxon & The Harlem Hamfats
10.Oh.Red・・・The Harlem Hamfats
11.River Hip Mama Swing Blues・・・Washboard Sam
12.If You're A Viper・・・Rosetta Howard & The Harlem Hamfats




1.Key To The Highway・・・ Jazz Gillum


本名はウィリアム・マッキンリー・ジラムです。1904年9月11日にミシシッピー州インディアノラで生まれました。幼くして両親が亡くなったため、教会の執事をしていた叔父に育てられました。兄達からハーミニカを教えてもらって、14歳には近所のグリーンウッドで吹いていました。1923年にはシカゴに移り、34年から50年までにビクターに焼く100曲の作品を残しています。牧歌的で哀愁感漂う音色で、高音域でゆったりした演奏をします。代表曲は「Key To The Highway」です。1966年に死去しました。
Big Bill Broonzy のギター一本に乗せて(実際にはウッド・ベース様のイミテーション・ストリング・ベース音らしきものも聞こえますが)、意外としっとりと歌う彼の声の距離感が実にいいのですよ。



2.What's That Smells Like Fish・・・Blind Boy Fuller



1930年代中期から1940年代にかけて高い人気を誇ったブルースマン。ピードモント・ブルースに分類されるが、彼のリズミックなギターと力強く明瞭なヴォーカルは、同じ地域の先輩ブルースマンたちとは一味違っている。ギターにはブラインド・ブレイクブラインド・ウィリー・マクテルとの共通性が強く感じられ、他のミュージシャンの音源をよく聴いていたことがうかがえるが、単なるイミテイションではなく、曲のまとめ方は非常に独創的であった。最もよく売れたのは、「ピッコロ・ラグ」「ジタバッグ・ラグ」「ラグ・ママ・ラグ」のような愉快なラグだった。「ステップ・イット・アップ・アンド・ゴー」は多くのブルースマンにカヴァーされた超人気曲。スライド・ギターも巧みにこなし、伝統的なバラッドも歌った。歌詞も面白く、「ホワッツ・ザット・スメルズ・ライク・フィッシュ」や「アイ・ウォント・サム・オヴ・ユア・パイ」など、わいせつな題材を持つホウカム曲も残している。こうしたレパートリーの多彩さが人気の要因の一つだったことは間違いない。フラーが33歳で若死にした後、ブラウニー・マギーが「ブラインド・ボーイ・フラー・ナンバー2」を、リチャード・トライスが「リトル・ボーイ・フラー」を名乗ってレコーディングした。フラーの影響力がいかに大きかったかがわかる。


3.Whisky Head Woman・・・Tommy McClennan

1908年ミシシッピー州ヤズー・シティ近くで生まれました。1920年から1930年にかけてロバート・ペットウェイを相棒に活動しました。ビッグ・ビル・ブルーンジーの勧めで、1939年から42年にかけて、ブルーバードに40曲をレコーディングします。「ボトル・イット・アップ・アンド・ゴー」、「ウィスキー・ヘッド・ウーマン」、「ディープ・ブルー・シー・ブルース」、「クロス・カットソー」などが有名です。緊迫感漂う強靭な歌声と叩きつけるような荒っぽいギター奏法は異彩を放っています。1958年頃にシカゴで亡くなった言われています。




4.Come On In My Kitchen・・・Robert Johnson





ロバート・リロイ・ジョンソン(Robert Leroy Johnson、1911年5月8日 - 1938年8月16日)は、アメリカのミュージシャン。アフリカ系アメリカ人。伝説的なブルース歌手として知られ、同時代の多くのブルースのみならず、その後のロックなどに多大な影響を与えた。
アコースティック・ギター一本でブルースを弾き語りして、アメリカ大陸中を渡り歩いた。当時の聴衆はギターのテクニックが巧みなのに驚き、「十字路で悪魔に魂を売り渡して、その引き換えにテクニックを身につけた」という伝説が広まった。これがジョンソンにまつわる「クロスロード伝説」である。
1936年11月、テキサス州サンアントニオで初めてのレコーディング・セッションに臨み、3日間で16曲をレコーディングした。1937年6月には二度目のレコーディングのためにダラスに赴き、13曲を残している。生涯に残したレコーディングは、この2回の合計29曲(42テイク)だけである。
翌1938年8月16日、27歳で死去。その死因については「ダンスパーティーで知り合った人妻と不倫をしたため、夫により飲み物にストリキニーネを盛られて毒殺された」、「人妻との情事を夫に目撃され、その場で刺殺された」など諸説あり不明である。ジョンソンの妹は病死だったとしているが、上記のクロスロード伝説では、ジョンソンの命を奪ったのは悪魔であると語り継がれている。また、亡くなったミシシッピ州グリーンウッドの役場に提出された死亡届には、死因に「No Doctor」とだけ記載されており、この事も謎めいた推測を増長させる要因となっている
エリック・クラプトンは、若い頃から何度もジョンソンの曲を採り上げてきており、2004年には全曲ジョンソンのカヴァーから成る『Me and Mr.Johnson』を発表。




5.Crying Won't Help Me・・・Tampa Red





Tom Dorsey(Thomas A. Dorsey=Georgia Tom)とシカゴで活動をともにし始めたのは1920年代の半ば以降ってことでは一致しているようです。
1928年の「It’s Tight Like That」がヒットしたおかげで翌年には17枚の SPをリリースしてますね。そっから戦後の1953年までの間に(途中ミュージシャン・ユニオンのストライキによる空白期はあるものの)実に 300曲以上(!)の録音をこなしています。この、チョー多作なとこも、Tampa Redが渋好みのブルース・マニアから軽んじられる理由なのかもしれませんねえ。

でも「It’s Tight Like That」を始め、「Anna Lou Blues(後に"Anna Lee"としてカヴァーされる)」、「Don’t You Lie To Me」、「It Hurts Me Too」などのオリジネイターであり、ルシール・ボーガンの「Black Angel Blues」もタンパ・レッドが採り上げたヴァージョンが契機となって Robert Nighthawkや B.B.Kingの録音が誘導された、と見ることが出来ます。その意味でも、ブルース界にとって、かなり大きな存在だった、と言えるのではないでしょうか?




6.Playin' Myself The Blues・・・ Cecil Gant




戦後にチャールズ・ブラウンと並び、いち早く人気を得た黒人歌手です。1915年にテネシー州ナッシュヴィルで生まれ、1951年にニューヨークで死去しました。兵役で44年にロサンジェルスに行き、戦争が終わるとギルトエッジというレーベルに吹き込みを始め、「I Wonder」が大ヒットを記録しました。甘いバラードのこの曲はR&B市場だけでなく白人層の人気も得ました。その後、4スター、バレット、デッカ、インペリアルなどに60枚を超えるSP盤を残しています。


7.Strut That Thing・・・ Cripple Clarence Lofton





1896年3月28日にテネシー州キングスポートで生まれ、1917年にシカゴに移り、1957年1月9日に死ぬまでシカゴに住んでいました。30年代から多くのアーティストを伴奏し、自己名義での初録音は35年4月2日にビッグ・ビル・ブルーンジーとの共演でヴォキャリオンに2曲を吹き込みました。”Cripple”の渾名のように生まれつき足が不自由でしたが、豪快なブギウギ・ピアノと共にダンスもなかなかのものだったようです。




8.Pine Top's Boogie Woogie・・・Pine Top Smith






1928年に録音されたパイントップ・クラレンス・スミスの「Pinetop's Boogie Woogie」は、曲のタイトルに「ブギ・ウギ」と付く最初の曲と言われています。しかし翌年に拳銃の流れ弾に当って死亡し、残された録音は20曲ほどしかありません。彼が偶然住んだアパートには、当時組んで演奏していたと言うミード・ルクス・ルイスとアルバート・アモンズが住んでいたと言う事も、縁とは言え不思議なものです。早世しましたが、後のブギ・ウギ・ピアニストへの影響も強い人です。




9.She Loves So Good・・・Frankie Half Pint Jaxon & The Harlem Hamfats








フランキー・ハーフ・パイント・ジャクスン。1895年2月3日米国アラバマコンゴメリー生まれのブルース・シガー兼コメディアン。158cm程の身長から“ハーフ・パイント”と呼ばれる。15歳の時にクラブで歌い始め、後にシカゴへ移り活躍。26〜40年ヴェカリオン、デッカなどで60曲以上のバラエティに富む録音を行なう。一時はジョージア・トムと共にルイジアナ・ジャグ・バンドにも参加。40年代にカリフォルニアで他界。



10.Oh.Red・・・The Harlem Hamfats






カントリー・ブルースとジャズ・ブルースを接合したバンドとして、1930年代後半のシカゴで活躍しました。主導者はトランペッターのハーブ・モランド( Herb Morand )で、彼はジャズ・ブルース歌手リジー・マイルズの兄弟です。彼の他、クラリネット奏者のオーデル・ランド( Odell Rand )、ピアニストのホレス・マルコム( Horace Malciolm )、ベーシストのジョン・リンゼ( John Lindsay )、ドラマーのフレッド・フリンのジャズ畑出身者と、ギターとボーカルのジョー・マッコイ( Joe McCoy )、マンドリン奏者のチャーリー・マッコイ( Charlie McCoy )のブルース畑出身者の計7人組です。39年までに80曲近くろ録音しました。ハーブ・モランドかジョー・マッコイの曲を中心に演奏し、タンパ・レッドなどの曲も取り上げています。


11.River Hip Mama Swing Blues・・・Washboard Sam






Sam WashboardことRobert Brownは、Big Bill Broonzyの父親であり、2人のブルース・マンの異母兄弟を作ったFrank Broonzyの私生児だったと言われている。
彼は、Arkansasで育ち、1920年代には都会の街角で彼の洗濯板の演奏をしてチップを稼ぐために、Memphisに移動した。
彼は、同じことを、1932年にChicagoに渡った時にもした。
1935年には、彼は、プロデュ−サーのLester MelroseとBluebirdレーベルでレコーディングした。
このことがVocalion、Victor、Chess、そして後には、Spiveyといった他のレーベルとの親睦をより高めたのみならず、Broonzyや上記したその他の初期のシカゴのアーティスト達とのおびただしいレコーディングに結びついた。



12.If You're A Viper・・・Rosetta Howard & The Harlem Hamfats



ロゼッタ・ハワードとハーレム・ハムファッツとの共演です。

79回目の曲目

新年明けましておめでとうございます。今回は、マーク・ボラン特集です。
マーク・ボランMarc Bolan、1947年9月30日 - 1977年9月16日)は、イギリスのミュージシャン、ギタリスト、作曲家。ロック・バンド、T・レックス のヴォーカリスト・ギタリスト。本名はマーク・フェルド(Mark Feld)。1977年9月16日、ロンドン郊外のバーンズにおいて自動車事故で世を去った。 自動車は愛人のグロリア・ジョーンズ(妻はジューン・チャイルド)が運転しており、ボランは助手席に乗車していた。 事故は車が大破するほど大きかったものの、通常ならば適切な処置を施せば命に別状のない程度の負傷だったが、 病院に運び込まれたボランの身体は負傷そのものよりも長年の薬物による疲弊のため、手術に耐えられる状態でなく 手の施しようがなかったという医者の証言が事故当時を報じたNME誌に掲載されている。 オカルトに凝っていた時期があり、また「僕は30歳まで生きられないだろう」と冗談めかして語っていたと言う話は有名である。結果的に彼が亡くなったのは、30歳の誕生日の2週間前であった。


1.20センチュリー・ボーイ・・・ T・レックス

2.デスデモアナ・・・ ジョンズ・チルドレン

3.デボラ・・・ ティラノザウルス・レックス

4.サラマンダ・パラガンダ・・・ ティラノザウルス・レックス

5.ユニコーン・・・ ティラノザウルス・レックス

6.ワン・インチ・ロック・・・ ティラノザウルス・レックス

7.ライド・ア・ホワイト・スワン・・・ T・レックス

8.サマータイム・ブルース・・・ T・レックス

9.シーガル・ウーマン・・・ T・レックス

10.ホット・ラヴ・・・ T・レックス

11.ゲット・イット・オン・・・ T・レックス

12.ジープスター・・・ T・レックス


1.20センチュリー・ボーイ

『本格科学冒険漫画 20世紀少年』(ほんかくかがくぼうけんまんが 20せいきしょうねん)は、浦沢直樹による日本の漫画。作品名は、T・レックスの楽曲「20センチュリー・ボーイ」に因んだものである。

2.デスデモアナ

サイモンがマネージャーをしていたバンドであるジョンズ・チルドレンにギタリストとコンポーザーとして加入する 。シングル「デスデモーナ」をリリースする 。
BBCが歌詞の内容に問題があるとして放送禁止としたにもかかわらず、人気がありチャート一位となる 。ジョンズ・チルドレンは、ステージの上を走りまわり、時には観衆の中に飛び込むなどの過激なギグを精力的に行う。
ドイツ公演では、観衆が暴動を起こし、警察の装甲車までが出動する騒ぎになった 。マークは6ヶ月もしないうちにジョンズ・チルドレンを脱退 。


3.デボラ



ロックバンドを結成するために、ミュージシャン募集の広告を掲載 。18歳のスティーブ・ターナーというドラマーをメンバーとして迎え、彼にスティーブ・パーグリン・トゥックと名前を改めさせる。
「ペリグリン・トゥック」というのは、トールキンの長編小説「指輪物語」の登場人物からとられた名である 。28歳のベンというベーシストを迎え、ティラノザウルス・レックスを結成 。
結成後すぐに、コベント・ガーデンに行ってライブを行うが、リハーサル不足もあって失敗する 。その後、すぐにバンドは解散する 。
トラック・レコードがジョンズ・チルドレン時代より使っていたエレキギターとアンプを取り上げる 。お金に困り、生活費を得るためにスティーブはドラムセットを売ってしまい、手元には1セットのボンゴしかなかった 。
ティラノザウルス・レックスはアコースティックギターとボンゴだけの2人編成のバンドで再出発した 。マークの良き理解者であるラジオDJのジョン・ピールが、違法ラジオ局でティラノザウルス・レックスの音楽を放送する 。
ティラノザウルス・レックスの新鮮なサウンドアンダーグラウンドで人気を集め、着々とファンを獲得する 。プロデューサーのジョー・ボイドに売り込んでデモ・テープを制作するが、仕上がりに不満があり、エンジニアのトニー・ヴィスコンティをプロデューサーとして迎える 。
リーガル・ソノフォーンと契約をおこなう 。1968年4月 シングル「デボラ」でデビュー 。
「デボラ」がヒットチャートで34位まであがる。


4.サラマンダ・パラガンダ




10月 2ndアルバム「プロフェッツ・シアーズ・アンド・ゼイジズ」をリリース。この頃から年上の女性、ジューン・チャイルドと暮らすようになる 。


5.ユニコーン

1969年1月 ジューンと結婚する 。5月 3rdアルバム「ユニコーン」をリリース。このアルバムよりベースを導入し、エレクトリックサウンドへと移行していく 。6月4thシングル「キング・オブ・ザ・ランブリング・スパイアーズ」をリリース。
初めてアメリカでツアーを行うが失敗 。スティーブがアメリカでドラッグ浸りになり、このツアーを最後に脱退。


6.ワン・インチ・ロック

7月 アルバム「マイ・ピープル・ワー・フェアー・・・・・」をリリース 。8月 2ndシングル「ワン・インチ・ロック」をリリース 。「ワン・インチ・ロック」がヒットチャート28位になる。


7.ライド・ア・ホワイト・スワン

ロンドンに戻った後、画家でタブラ奏者のミッキー・フィンと出会い、ティラノザウルス・レックスの再建を開始する 。エリック・クラプトンの家に滞在し、本格的なギター奏法の伝授を受ける。
1970年1月 5thシングル「バイ・ザ・ライト・オフ・ザ・マジカル・ムーン」をリリース。3月4thアルバム「ベアード・オブ・スターズ」をリリース 。この頃から、エレクトリック・ロック色が濃くなる。
デヴィット・ボウイと出会い、彼のレコーディングに参加 。10月 フライ・レーベルに移籍し、グループ名をT.レックスと改める。10月 シングル「ライド・ア・ホワイト・スワン」をリリース 。12月 アルバム「T・レックス」をリリース。1971年1月 「ライド・ア・ホワイト・スワン」がチャート2位まで上昇し、シルバー・ディスクに輝く。


8.サマータイム・ブルース

ベースにスティーブ・カーリー、ドラムにビル・リジェンドを迎える。2月 デビュー・ライブを行う。 この時、マークはエレキと金ラメのスーツという姿で登場した。
エレクトリック・バンドへの変革を遂げる。

9.シーガル・ウーマン


10.ホット・ラヴ

2月 シングル「ホット・ラブ」をリリース。「ホット・ラブ」が6週間もの間、チャート1位に輝く。

11.ゲット・イット・オン

7月 シングル「ゲット・イット・オン」をリリース 。「ゲット・イット・オン」も続いてチャート1位に輝く。9月 アルバム「電気の武者」をリリース。
この頃に、ブギーを基調としたギターリフに変則的なコード進行・異様なストリングスアレンジとコーラスワークが組み合わさった、ボラン・ブギーといわれるT.レックスサウンドが完成。「電気の武者」がアルバムチャートで7週連続1位となる。人気がアメリカにも飛び火し、「ゲット・イット・オン」が大ヒットする。


12.ジープスター



11月 シングル「ジープ・スター」をリリース。

78回目の曲目

2014年10月25日に亡くなったジャック・ブルースの特集です。
次々に60年代に活躍したアーティストが召されていきます。






1.彼女は調子っぱずれ・・・ジャック・ブルース
2.ホワイ・ドンチャ・・・ウエスト・ブルース・レイング
3.N.S.U.・・・クリーム
4.アイ・フィール・フリー・・・クリーム
5.ストレンジ・ブルー・・・クリーム
6.サンシャイン・オヴ・ユア・ラヴ・・・クリーム
7.ホワイト・ルーム・・・クリーム
8.荒れ果てた街・・・クリーム
9.バッジ・・・クリーム
10.クロスロード・・・クリーム






1.彼女は調子っぱずれ

クリームのベーシストだったジャック・ブルースがグループ解散後の1969年に発表したソロ第1作目。丸1年もの歳月をかけ完成されただけあって全体に重厚なサウンド。全曲ジャック・ブルースとピート・ブラウンのオリジナル・ナンバーで①⑧曲目ではブラスが入りジャズっぽい演奏

2.ホワイ・ドンチャ

元マウンテンのレズリー・ウェストとコーキー・レイングが元クリームのジャック・ブルースと組んだハード・ロック・バンドが1972年に発表した記念すべきファースト・アルバム。多くの名盤を手がけるアンディ・ジョーンズを共同プロデュース

3.N.S.U.

エリック・クラプトンがその時に悩んだとのうわさである性病の型の頭字語です。

4.アイ・フィール・フリー

そのシングルの片面の曲です。

5.ストレンジ・ブルー

日本では、「カラフル・クリーム」というタイトルで呼ばれたセカンド・アルバムからの曲です。クラプトンのギターがウーマン・トーンと呼ばれました。

6.サンシャイン・オヴ・ユア・ラヴ


同じく「カラフル・クリーム」からです。

7.ホワイト・ルーム

ヒット曲です。この曲のワウワウに驚きましてね。

8.荒れ果てた街

「クリームの素晴らしき世界」からです。

9.バッジ



クリームの解散が決まり、最後のアルバム用に曲が必要となったとき、親友ジョージ・ハリスンの助けを借りて作られた曲なのだ。

最初から聞こえるリズム・ギターはジョージが弾いており、クラプトンのギターが入ってくるのは、2番の歌が終わったあとからだ。
ブレイクでのコードアルペジオを聴いた時の何ともいえない開放感、カタルシスは今でも鮮明に蘇る。

レスリー・スピーカー(回転式スピーカー)を通したきらびやかな音は天から降ってきたかのようで、その響きに魅了された。

ちなみに、「バッジ(Badge)」という妙なタイトルは偶然から生まれたものだ。
二人で歌詞を考えていたとき、ジョージがBridge(サビ)と書いたのを、向かい側に座っていたクラプトンが「なになに・・・Badge?」と言ったことからつけられたのだという。

10.クロスロード

大有名曲です。