80回目の曲目

アコースティックなブルースの特集です。





1.Key To The Highway・・・Jazz Gillum
2.What's That Smells Like Fish・・・Blind Boy Fuller
3.Whisky Head Woman・・・Tommy McClennan
4.Come On In My Kitchen・・・Robert Johnson
5.Crying Won't Help Me・・・Tampa Red
6.Playin' Myself The Blues・・・Cecile Gant
7.Strut That Thing・・・Cripple Clarence Lofton
8.Pine Top's Boogie Woogie・・・Pine Top Smith
9.She Loves So Good・・・Frankie Half Pint Jaxon & The Harlem Hamfats
10.Oh.Red・・・The Harlem Hamfats
11.River Hip Mama Swing Blues・・・Washboard Sam
12.If You're A Viper・・・Rosetta Howard & The Harlem Hamfats




1.Key To The Highway・・・ Jazz Gillum


本名はウィリアム・マッキンリー・ジラムです。1904年9月11日にミシシッピー州インディアノラで生まれました。幼くして両親が亡くなったため、教会の執事をしていた叔父に育てられました。兄達からハーミニカを教えてもらって、14歳には近所のグリーンウッドで吹いていました。1923年にはシカゴに移り、34年から50年までにビクターに焼く100曲の作品を残しています。牧歌的で哀愁感漂う音色で、高音域でゆったりした演奏をします。代表曲は「Key To The Highway」です。1966年に死去しました。
Big Bill Broonzy のギター一本に乗せて(実際にはウッド・ベース様のイミテーション・ストリング・ベース音らしきものも聞こえますが)、意外としっとりと歌う彼の声の距離感が実にいいのですよ。



2.What's That Smells Like Fish・・・Blind Boy Fuller



1930年代中期から1940年代にかけて高い人気を誇ったブルースマン。ピードモント・ブルースに分類されるが、彼のリズミックなギターと力強く明瞭なヴォーカルは、同じ地域の先輩ブルースマンたちとは一味違っている。ギターにはブラインド・ブレイクブラインド・ウィリー・マクテルとの共通性が強く感じられ、他のミュージシャンの音源をよく聴いていたことがうかがえるが、単なるイミテイションではなく、曲のまとめ方は非常に独創的であった。最もよく売れたのは、「ピッコロ・ラグ」「ジタバッグ・ラグ」「ラグ・ママ・ラグ」のような愉快なラグだった。「ステップ・イット・アップ・アンド・ゴー」は多くのブルースマンにカヴァーされた超人気曲。スライド・ギターも巧みにこなし、伝統的なバラッドも歌った。歌詞も面白く、「ホワッツ・ザット・スメルズ・ライク・フィッシュ」や「アイ・ウォント・サム・オヴ・ユア・パイ」など、わいせつな題材を持つホウカム曲も残している。こうしたレパートリーの多彩さが人気の要因の一つだったことは間違いない。フラーが33歳で若死にした後、ブラウニー・マギーが「ブラインド・ボーイ・フラー・ナンバー2」を、リチャード・トライスが「リトル・ボーイ・フラー」を名乗ってレコーディングした。フラーの影響力がいかに大きかったかがわかる。


3.Whisky Head Woman・・・Tommy McClennan

1908年ミシシッピー州ヤズー・シティ近くで生まれました。1920年から1930年にかけてロバート・ペットウェイを相棒に活動しました。ビッグ・ビル・ブルーンジーの勧めで、1939年から42年にかけて、ブルーバードに40曲をレコーディングします。「ボトル・イット・アップ・アンド・ゴー」、「ウィスキー・ヘッド・ウーマン」、「ディープ・ブルー・シー・ブルース」、「クロス・カットソー」などが有名です。緊迫感漂う強靭な歌声と叩きつけるような荒っぽいギター奏法は異彩を放っています。1958年頃にシカゴで亡くなった言われています。




4.Come On In My Kitchen・・・Robert Johnson





ロバート・リロイ・ジョンソン(Robert Leroy Johnson、1911年5月8日 - 1938年8月16日)は、アメリカのミュージシャン。アフリカ系アメリカ人。伝説的なブルース歌手として知られ、同時代の多くのブルースのみならず、その後のロックなどに多大な影響を与えた。
アコースティック・ギター一本でブルースを弾き語りして、アメリカ大陸中を渡り歩いた。当時の聴衆はギターのテクニックが巧みなのに驚き、「十字路で悪魔に魂を売り渡して、その引き換えにテクニックを身につけた」という伝説が広まった。これがジョンソンにまつわる「クロスロード伝説」である。
1936年11月、テキサス州サンアントニオで初めてのレコーディング・セッションに臨み、3日間で16曲をレコーディングした。1937年6月には二度目のレコーディングのためにダラスに赴き、13曲を残している。生涯に残したレコーディングは、この2回の合計29曲(42テイク)だけである。
翌1938年8月16日、27歳で死去。その死因については「ダンスパーティーで知り合った人妻と不倫をしたため、夫により飲み物にストリキニーネを盛られて毒殺された」、「人妻との情事を夫に目撃され、その場で刺殺された」など諸説あり不明である。ジョンソンの妹は病死だったとしているが、上記のクロスロード伝説では、ジョンソンの命を奪ったのは悪魔であると語り継がれている。また、亡くなったミシシッピ州グリーンウッドの役場に提出された死亡届には、死因に「No Doctor」とだけ記載されており、この事も謎めいた推測を増長させる要因となっている
エリック・クラプトンは、若い頃から何度もジョンソンの曲を採り上げてきており、2004年には全曲ジョンソンのカヴァーから成る『Me and Mr.Johnson』を発表。




5.Crying Won't Help Me・・・Tampa Red





Tom Dorsey(Thomas A. Dorsey=Georgia Tom)とシカゴで活動をともにし始めたのは1920年代の半ば以降ってことでは一致しているようです。
1928年の「It’s Tight Like That」がヒットしたおかげで翌年には17枚の SPをリリースしてますね。そっから戦後の1953年までの間に(途中ミュージシャン・ユニオンのストライキによる空白期はあるものの)実に 300曲以上(!)の録音をこなしています。この、チョー多作なとこも、Tampa Redが渋好みのブルース・マニアから軽んじられる理由なのかもしれませんねえ。

でも「It’s Tight Like That」を始め、「Anna Lou Blues(後に"Anna Lee"としてカヴァーされる)」、「Don’t You Lie To Me」、「It Hurts Me Too」などのオリジネイターであり、ルシール・ボーガンの「Black Angel Blues」もタンパ・レッドが採り上げたヴァージョンが契機となって Robert Nighthawkや B.B.Kingの録音が誘導された、と見ることが出来ます。その意味でも、ブルース界にとって、かなり大きな存在だった、と言えるのではないでしょうか?




6.Playin' Myself The Blues・・・ Cecil Gant




戦後にチャールズ・ブラウンと並び、いち早く人気を得た黒人歌手です。1915年にテネシー州ナッシュヴィルで生まれ、1951年にニューヨークで死去しました。兵役で44年にロサンジェルスに行き、戦争が終わるとギルトエッジというレーベルに吹き込みを始め、「I Wonder」が大ヒットを記録しました。甘いバラードのこの曲はR&B市場だけでなく白人層の人気も得ました。その後、4スター、バレット、デッカ、インペリアルなどに60枚を超えるSP盤を残しています。


7.Strut That Thing・・・ Cripple Clarence Lofton





1896年3月28日にテネシー州キングスポートで生まれ、1917年にシカゴに移り、1957年1月9日に死ぬまでシカゴに住んでいました。30年代から多くのアーティストを伴奏し、自己名義での初録音は35年4月2日にビッグ・ビル・ブルーンジーとの共演でヴォキャリオンに2曲を吹き込みました。”Cripple”の渾名のように生まれつき足が不自由でしたが、豪快なブギウギ・ピアノと共にダンスもなかなかのものだったようです。




8.Pine Top's Boogie Woogie・・・Pine Top Smith






1928年に録音されたパイントップ・クラレンス・スミスの「Pinetop's Boogie Woogie」は、曲のタイトルに「ブギ・ウギ」と付く最初の曲と言われています。しかし翌年に拳銃の流れ弾に当って死亡し、残された録音は20曲ほどしかありません。彼が偶然住んだアパートには、当時組んで演奏していたと言うミード・ルクス・ルイスとアルバート・アモンズが住んでいたと言う事も、縁とは言え不思議なものです。早世しましたが、後のブギ・ウギ・ピアニストへの影響も強い人です。




9.She Loves So Good・・・Frankie Half Pint Jaxon & The Harlem Hamfats








フランキー・ハーフ・パイント・ジャクスン。1895年2月3日米国アラバマコンゴメリー生まれのブルース・シガー兼コメディアン。158cm程の身長から“ハーフ・パイント”と呼ばれる。15歳の時にクラブで歌い始め、後にシカゴへ移り活躍。26〜40年ヴェカリオン、デッカなどで60曲以上のバラエティに富む録音を行なう。一時はジョージア・トムと共にルイジアナ・ジャグ・バンドにも参加。40年代にカリフォルニアで他界。



10.Oh.Red・・・The Harlem Hamfats






カントリー・ブルースとジャズ・ブルースを接合したバンドとして、1930年代後半のシカゴで活躍しました。主導者はトランペッターのハーブ・モランド( Herb Morand )で、彼はジャズ・ブルース歌手リジー・マイルズの兄弟です。彼の他、クラリネット奏者のオーデル・ランド( Odell Rand )、ピアニストのホレス・マルコム( Horace Malciolm )、ベーシストのジョン・リンゼ( John Lindsay )、ドラマーのフレッド・フリンのジャズ畑出身者と、ギターとボーカルのジョー・マッコイ( Joe McCoy )、マンドリン奏者のチャーリー・マッコイ( Charlie McCoy )のブルース畑出身者の計7人組です。39年までに80曲近くろ録音しました。ハーブ・モランドかジョー・マッコイの曲を中心に演奏し、タンパ・レッドなどの曲も取り上げています。


11.River Hip Mama Swing Blues・・・Washboard Sam






Sam WashboardことRobert Brownは、Big Bill Broonzyの父親であり、2人のブルース・マンの異母兄弟を作ったFrank Broonzyの私生児だったと言われている。
彼は、Arkansasで育ち、1920年代には都会の街角で彼の洗濯板の演奏をしてチップを稼ぐために、Memphisに移動した。
彼は、同じことを、1932年にChicagoに渡った時にもした。
1935年には、彼は、プロデュ−サーのLester MelroseとBluebirdレーベルでレコーディングした。
このことがVocalion、Victor、Chess、そして後には、Spiveyといった他のレーベルとの親睦をより高めたのみならず、Broonzyや上記したその他の初期のシカゴのアーティスト達とのおびただしいレコーディングに結びついた。



12.If You're A Viper・・・Rosetta Howard & The Harlem Hamfats



ロゼッタ・ハワードとハーレム・ハムファッツとの共演です。