29回目の曲目

2010年11月6日(土) 15:00〜16:00
今回はビートルズがカバーした曲のオリジナル曲集をお休みして、バブルガム・ミュージック特集です。
60年代末から70年代初めにかけてバブルガム・ミュージックというのが流行りました。 風船ガムを噛むような10代向けの明るく軽く覚えやすいポップスでのことです。 この当時は混沌とした音楽シーンが展開されていて, 一方でコマーシャリズムに徹底したヒット曲があるかと思えば,アートロックだのサイケデリックサウンドだのといった小難しいマニアックなジャンルに属する曲もありました。 特にベトナム戦争真っ盛りの時期で反戦運動と資本主義vs共産主義のイディオロギー対立といった思想面で『暗い』時代でしたから, 音楽にもそれが反映し片方では知的な若者達がウッドストックに代表される音楽を通して社会に訴えるみたいなのがカッコいいという風潮がありました。 
バブルガム・ミュージックはこの対極にあった運動で, 詞はノーテンキ, 曲はキャッチー, 作り方も多くの場合スタジオ・ミュージシャンが集まって作るという流れもあって,1人のアーティストが複数の名を使い複数の架空のバンドでレコーディングするというものでした。

気になる女の子・・・ メッセンジャー

ルーキー・ルーキー ・・・ジョルジオ・モロダー

サイモン・セッズ・・・ 1910フルーツガム・カンパニー

ヤミー・ヤミー・ヤミー・・・ オハイオ・エクスプレス

シュガー・シュガー・・・ アーチーズ

バブルガム・ワールド・・・ 1910フルーツガム・カンパニー

笑ってローズマリーちゃん・・・ フライング・マシーン

ノックは3回・・・ トニー・オーランド&ドーン

ジェラルディン・・・ ブーツ・ウオーカー

夜明けのヒッチ・ハイク・・・ バニティ・フェア

ワン・バッド・アップル・・・ オズモンズ

イエロー・リバー・・・ クリスティー

霧の中の二人・・・ マシュマカーン

バラバラ・・・ レインボーズ

シュガー・ベイビー・ラブ・・・ ルーベッツ

1.Messengers・・・That's The Way A Woman Is
気になる女の子 That's The Way A Woman Is (1971年、日本でのみヒット。単独音源としては未CD化。 当時フィンガ−5がカヴァーした。 「ア・ア・アアアーア」の 大塚製薬「W・アミノバリュー」CM曲。)アメリカ、ミルウォーキー出身の4人組ロックバンド、メッセンジャーズ。1962年に結成された4人組で、モータウンと初めて契約した白人グループとして話題になります。
1965年シングル「マイ・ベイビー」でデビューしますが、セールス的には成功を収めることが出来ませんでした。しかし、1967年、リスタートを切る形で、ウィルソン・ピケットのカバー曲「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」がヒットします。この曲「気になる女の子」は、1971年にリリースされたシングル曲で、日本では大ヒットしますが、アメリカのチャートでは最高62位と振るいませんでした。
その後、72年に日本に来たときにシングル「ビッグ・ステップ」がレコーディングされるなど、日本では成功を収めますが、本国アメリカではそれほど人気にならず、70年代初頭に解散してしまいます。
日本では、南沙織や3姉妹ユニット、ザ・チャープスがカバーし、2005年にアミノバリューのCMソングに使われるなど、今なお人気の楽曲になっています。
モータウンが白人グループ専用に設立したレア・アース・レコードの4人組。全米では62位ながら日本ではオリコン5位の大ヒット。終始アップ・テンポで、あっという間に終わってしまう感じのキャッチーなポップ・ナンバーでした。 同名のグループは、確認しているだけでも、4グループいます。

2.Looky Lookey ・・・ Giorgio Moroder
この直後にマイケル・ホルムとスピナッチを結成する。70年代後半以降はプロデューサーとしてもビッグ・ネームになる。
電子音楽界が生んだ偉大なるコンポーザー、ジョルジオ・モロダー。今さら説明するまでもない、ディスコ・ミュージック・シーンの大家である。
40年イタリアで生まれたジョルジオは、学生時代から作曲活動を開始。その後、ドイツ・ミュンヘンに自らのスタジオを構え、シングル「Mah Na Mah Na」(68年)でデビュー。
70年代はPete Bellotteと手を組み、ボストンの女性シンガー、ドナ・サマーなどをプロデュース。そこでついに、タンス型のムーグ・シンセを駆使して開発されたミュンヘン・ディスコサウンドと呼ばれる16分のシーケンス・ベース・ラインがお披露目されることに。そういうアグレッシヴな活動のなかで「ラヴ・トゥ・ラヴ・ユア・ベイビー」(75年)、「アイ・フィール・ラヴ」(77年)などが全世界で大ヒットを記録。ドナの全身全霊をかけた超絶ヴォーカルを宇宙にまで導くデケデケ・サウンドは、その後のディスコ・ブームの先駆けとなり、地球上のダンサーたちを宇宙的快楽へと誘った。さらに、ダンス音楽のみならず、映画のサントラでもその敏腕っぷりを発揮。特に『ミッドナイト・エクスプレス』、『メトロポリス』、『フラッシュダンス』、『トップガン』は映画音楽史に残る不朽の名作である。
彼が与えた衝撃の大きさは、現在も彼の音楽がありとあらゆるダンス・ミュージック・プロデューサーたちにサンプリングされ続けているという事実からも分かる。


3.Simon Says ・・・ 1910 Fruitgum Co.
『バブルガム・ミュージック』で最も成功したバンドの最大のヒット曲。この曲でリード・ヴォーカルをとっているJoey Levineは同じKasenetz-Katzプロダクションのバンド、オハイオ・エクスプレスでもリード・ヴォーカルをとっている。

4.Yummy,Yummy,Yummy ・・・ Ohio Express
1910フルーツガム・カンパニーと並ぶバブルガム・ミュージックの代表的バンドのヒット曲。プロデューサーが1910フルーツガム・カンパニーと同じKasenetz-Katzであるだけでなく、リード・ボーカルも1910フルーツガム・カンパニーと同じJoey Levineがとっている。

5.Sugar Sugar ・・・ Archies
アーチーズは、68年にスタートしたアニメ番組の主役となった実在しないバンド。そのボーカルは、セッション・シンガーで有名なロン・ダンテと女性のトニ・ワインが多重録音したものでした。ダンテは、カフリンクスで「トレイシー」ワインは、ダスクで「エンジェル・ベイビー」ドーンで「ノックは三回」などをヒットさせています。この曲は、ジェフ・バリーとアンディ・キムが元々は、モンキーズに用意したもので、シンプルでキャッチーなサウンドが一般受けし、全米1位を4週間続けました。

6.Bubble Gum World -・・・1910 Fruitgum Co
バブルガムを馬鹿にする人達への返答として皮肉っぽく歌われる曲だが、イントロからもうニヤリ。何故かは敢えて申しませんが、一言。筒美京平は偉い! “バブル・ガム・ワールド”が“サザエさん”そのままだ!!!

7.Smile A Little Smile For Me ・・・ Flying Machine
この歌の作者であり, リード・ボーカル担当でありプロデューサでありアレンジャーであるのがトニー・マコーレイ。  彼はのちにデビッド・ソウルの『やすらぎの季節』やファウンデーションズの『恋の乾草(Build Me Up Buttercup)』やエジソンライトハウスの『恋のほのお』などのヒット曲も手がけます。
そして作詞は『ボニーとクライドのテーマ』やニュー・ボードビル・バンドの『ウインチェスターの鐘 (Winchester Cathedral - 1966)』, メアリー・ホプキンスの『恋の扉(Knock, Knock, Who's There)』,ニュー・シーカーズの『You Won't Find Another Fool Like Me(1974)』, ウエイン・ニュートンの『行かないで, パパ(Daddy Don't You Walk So Fast)』などを作ったゲオフ・スティーブンス。  彼らのコンビではホリーズの『ごめんねスザンヌ(Sorry Suzanne)』などがあります。

8.Knock Three Times ・・・Tony Orlando & Dawn
幼少の頃から街頭で歌を歌って家計を助けていたトニー・オーランドは13歳でドン・カーシュナーの音楽出版社に雇われデモ歌手になります。 当時無名のゲリー・ゴフィン/キャロル・キング夫妻の作品でシレルズのヒット曲となる 『Will You Love Me Tomorrow 』も彼がデモ歌手時代に歌った歌で後にアルバムの中に収めています。 1961年17歳で自身もゴフィン/キング夫妻のペンによる 『Halfway To Paradise』でレコード・デビューし, そこそこのヒットとなります。さらに同じ年に出した 『Bless You』はこれを上回るヒットとなります。 
再びトニー・オーランドの声がヒット・チャートに現れたのはそれから10年近く経った1969年のこと。 しかしトニー・オーランドではなくスタジオ・ミュージシャンが集まって作った Wind というバンドのボーカリストとしてでした。
60年代はバブル・ガム・サウンドの多くがそうであったようにスタジオ・ミュージシャンだけでレコードを作りそれがヒットするというのも珍しくありませんでした。 Wind も 『Make Believe 』という曲が最高28位まで上がりました。
1970年,CBSレコードの音楽出版社エイプリル・ブラックウッドのエゼクティブになった彼に再び覆面歌手の依頼が来ます。  プロモーション・ディレクタの元トーケンズのジェイ・シーガルの娘, ステイシー・ドーン・シーゲルの名前からつけた Dawn の歌手として『Candida 』を吹きこみ最高3位になるヒットとなります。すると全米にドーンと名乗るバンドが現れ始めます。 ここでトニー・オーランドは音楽出版社のエゼクティブの職を捨て急遽バックコーラスとしてテルマ・ホプキンスとジョイス・ビンセントを選び、トニー・オーランド&ドーンとして再デビューします。 そして1971年アルバム Candida から『ノックは3回』をシングル・リリースしたところ今度は第1位にランクされる大ヒットとなります。 『ノックは3回』には女性コーラスが入っていますが、これがテルマ・ホプキンスとジョイス・ビンセントであるかということについて見解がわかれるようです。一番いいのは関係者が正解を言えばいいのでしょうが、こういうのは謎のままにしておいた方がいつまでも話題になってセールス上有利なのか未だにはっきりした答えは出ていません。
さらに1973年には『幸せの黄色いリボン』が大ヒット。 恋人に「今でも愛しているなら家の外に黄色いリボンを飾っておいてほしい」と頼んだ服役囚の実話を, その元服役囚を乗せたバスの運転手が話したことから全米に広がりました。 それを Irwin Levine と L. Russell Brown が歌にしたものです。

9.Geraldine ・・・Boots Waker
日本のポップ関係者が、アメリカで不発だった1年前のシングルを強力にラジオでオンエアし、日本のみで大ヒットしました。嵐の効果音で始まる哀愁味を帯びたロッカ・バラード。
ブーツは、全米では、コミカルなポップ・ソング「They're here」の90位台の一発屋で終わりました。どちらも、L.Zeratoの名前でのブーツの自作曲。


10.Hitchin' A Ride ・・・Vanity Fare
クリフ・リチャードとの競作『しあわせの朝』が全英ヒット・チャートで8位、全米でも12位になるヒット。続いて出した『夜明けのヒッチ・ハイク』が1970年1月に全英で16位、全米で5位になるヒット。作者はピーター・カレンダーとミッチ・マレイ(Peter Callender & Mitch Murray)。 このコンビは1974年にペイパー・レース(Paper Lace)が歌ってヒットした『悲しみのヒーロ』(Billy Don't Be A Hero)や『ザ・ナイト・シカゴ・ダイド』(The Night Chicago Died)の作者でもあります。



11.One Bad Apple ・・・ The Osmonds
9人兄弟の中の5人の男の子(Alan, Wayne, Merrill, Jay, Danny)で結成されたコーラス・グループ「オズモンド・ブラザーズ」としてデビュー。 7歳から15歳の兄弟5人の見事なコーラスと完璧なダンスで、ジャクソン・ファイブと人気を2分していた伝説のグループ。後に妹のMarieと末っ子のJimmyがステージに加わり、ジ・オズモンドとして活躍。
オズモンズは本国アメリカより先に日本で人気を博した。末っ子Jimmy Osmondは6歳のとき、日本語で歌った「ちっちゃな恋人」が大ヒットし、一躍お茶の間のアイドルとなった。

12.Yellow River ・・・ Christie
『イエロー・リバー』は歌詞を見てわかる通りベトナム戦争絡みの曲です。 60年代終わりから70年代初めはヒット曲の陰にベトナム戦争が見え隠れしています。
ただ、自作自演しているクリスティ自身はイギリス人。 本国イギリスでは1位になっても、アメリカではビルボード最高位でも23位止まりでした。 
『サイレンス・イズ・ゴールデン(1967)』のヒットで有名なトレメローズのためにジェフ・クリスティが書いた作品。 トレメローズがあまり乗り気でなかったのでクリスティ自身がバンドを作ってリリースしたところ世界中で1,500万枚売れたヒット曲となりました。 もっともバンドにはトレメローズのメンバーの1人の実弟(アラン・バックリー)がおり、またバック・コーラスはトレメローズが担当していたので、トレメローズとのつながりはナニゲに残っている曲です。

クリスティは米ソ冷戦時代に共産圏でコンサートを開いた初めての西側のバンドということになっています。 日本でもこの歌は流行りましたが、彼らは日本に対してはすげない態度をとり、代りにスペイン語で曲を録音したりして、中南米で人気が出たようです。 特にアルゼンチンでは彼らの90分のテレビ番組が設けられたほど人気があったと伝えられています。。

13.As Years Go By ・・・ Mashmakhan
『霧の中の二人』は本国カナダで 100,000 枚、アメリカで 500,000 枚、そして日本で一桁多い 1,000,000 枚売れた『日本で流行った外国曲』の一つ。  
mashmakhan という地元で売られていたハッシッシ(大麻)の一種を名前にしたこのバンドは1960年、カナダのフランス語圏モントリオールで結成されたグループ。リーダーでありボーカル担当のピエール・セネカルは名前が示すようにフランス系カナダ人。彼はこの『霧の中の二人』の作者でもある。

14.Balla Balla ・・・ The Rainbows
リッチーブラックモアのグループではなく60年代のドイツの男性4人のグループのレインボーズです。ビートバンド、ガレージバンドという感じ。日本だけじゃなく、ヨーロッパでもずいぶん売れたそうだ。セブンスという同時代のグループも同じカップリングでシングル出しているが、どちらがオリジナルか一頃論争があったが現在でも定かではない。
歌詞はMy baby baby Balla BallaとHo!Balla Balla Balla Ballaだけです。

15.Sugar Baby Love ・・・ Rubettes
ロンドンで結成された6人のポップ・ロック・グループ。50・60年代のオールディーズを70年にリバイバルさせたような曲。「ワッシュワリワリワ」のかけ声と分厚いファルセット・コーラスが重なりセリフまで入って、どんどん盛り上がる定番のつぼを押さえた名曲。イギリスと日本での大ヒットで、全米では37位どまりでした。