28回目の曲目

2010年10月2日 15:00〜16:00
2000年10月6日に開館したジョン・レノンミュージアムが丸10年目(の6日前・・・)に当たる2010年9月30日をもって閉館しました。


今回はビートルズがカバーした曲のオリジナル曲集、第2回目です。東京からBRITISH BEET BANDコレクターの船橋さんが3回目の出演です。

心のうずく時 1953 ・・・エルビス・プレスリー

心のうずく時 1957 ・・・エルビス・プレスリー

ラウンチー・・・ ビル・ジャスティ

世界は日の出を待っている・・・ レス・ポールとメリー・フォード

ワイルド・キャット・・・ ジーン・ビンセント

ムービン・アンド・グルービン・・・ デュアン・エディー

ラムロッド・・・ デュアン・エディー

マッチボックス・ブルース ・・・ブラインド・レモン・ジェファースン

マッチボックス・・・ カール・パーキンス

マイ・ボニー・・・ レイ・チャールズ

聖者の行進・・・ バンク・ジョンスンとニューオリンズ・バンド

セインツ・ロックンロール・・・ ビル・ヘイリーと彼のコメッツ

ノーボディ・チャイルド・・・ ハンク・スノー

A面の「MY HAPPINESS」

1.THAT'S WHEN YOUR HERTACHES BEGIN(1953) ・・・ELVIS PRESLEY
2.THAT'S WHEN YOUR HERTACHES BEGIN(1957) ・・・ELVIS PRESLEY

この曲は1953年の7月にプレスリーが4ドルを投じてサム・フィリップスが経営するメンフィス・レコーディング・サービスで自主制作されたアセテート盤、「My Happiness」のB面に吹き込まれた曲です。プレスリーは、この1年後にSUN RECORDSからデビューします。
このアセテート盤は長い間所在が不明だったが、1988年にエルヴィスの高校時代のクラスメートのエドワード・リークが所有していることが分かり、2年後の1990年になって37年ぶりに日の目を見た。B面の「THAT'S WHEN YOUR HERTACHES BEGIN」(心のうずく時)は、さらに2年後の1992年に39年目にして初めて日の目を見た。

3.RAUNCHY・・・BILL JUSTIS

此の作品は、彼自身とシド・マンカーの共作で、トゥワング・ソロ・リード・ギター形態を使用した初めての曲だったかも知れない。それは他のアーティスト達により発展させられ、2,3年後には見本となった。ビルはサキソフォン、シドはリード・ギターを演奏し、全米3位、R&B・チャート1位となった。リード・ギター・ワークは後のインストゥルメンタルと比較して、基本的なものだった。しかし、ギターを全面に大きくフィーチャーして、ビルの吹くサックスと絡んで展開されるカントリー&ウエスタン色の強い世界は当時は斬新で、後の“ハイ・サウンド”に繋がるメンフィス・ビートをチャートに送り込む事となった。「クラシック・ロック・インスト」の草分け的存在と言える。
ヒット後間もなく、プロデューサーのリー・ヘイゼルウッドとギタリストのデュアン・エディは、そのスタイルを発展させた究極のスタイルで録音した。軽いリード・ギター・サウンドから離れて、非常にリヴァーベレイション(残響)を高めた録音だった。1958年、デュアンは「Rebel Rouser」のヒットからスタートしたが、1965年、RCA・レコードからリリースした「Twangin' The Golden Hits」と言うアルバムの中で「Raunchy」を録音した。後年、多くのアーティスト達、ヴェンチャーズ、ビル・ブラック、トム&ジェリー、アル・カイオラ、ビリー・ストレンジ、トミー&ザ・トム・トムズ等が此の曲をシングル、アルバム問わず録音した。1958年、ジョージ・ハリスンジョン・レノンとポール・マッカトニーの前で此の曲を演奏し、ジョンが当時のクオリーメン(ビートルズの前身バンド)にジョージを参加させる事を決めたと言う逸話がある。

4.THE WORLD IS WAITNG FOR THE SUNRIDE・・・LES PAUL & MARY FORD

1960年初頭のリハーサルの録音に残っているレス・ポール&メリー・フォードが1951年に製作したスタンダード曲。

5.WILD CAT・・・GENE VINCENT

細身の黒革つなぎ(又はジャンパー)にコテコテ・リーゼントというスタイルでマイクに喰い付くように、時にはマイクを舐めるように近づけて歌った超セクシーなジーン・ヴィンセントは私生活でも問題ありでどこを探しても健全さがみられないほど闇の放蕩ロッカーです。1955年頃、バイク事故で入院中のジーン・ヴィンセントは"Race with the Devil"と"Be-Bop-A-Lula"の曲を書いたといわれています。 
当初"Be-Bop-A-Lula"はCapitol Records(キャピタル・レコード)で、"Woman Love(ウーマン・ラヴ)"のカバーのB面としてリリースされた。Be-Bop-A-Lulaの曲の元はジーン・ヴィンセントが書いたことに間違いはないようですが、その歌詞は誰が書いたかには諸説があるようです。オリジナルのバンドメンバーはギター奏者が2名とロカビリー・スラップベースとドラムの5人グループです。 Jeff Beckジェフ・ベック)も影響を受けたというリードギターのCliff Gallup(クリフ・ギャラップ)のギター(Gretsch)は有名で、そのロカビリーギター奏法をギャロッピングと呼ぶそうですが、その肝心なクリフ・ギャラップは30曲以上録音した後の50年代のうちにバンドを離れてしまいました。 他にも何度かメンバーチェンジがあったそうで、1957年から1958年の録音にはピアノのCliff Simmonsとか、テナーサックスのPlas Johnson(プラス・ジョンソン)や、ジャンプブルース&ジャズのJackie Kelso(ジャッキー・ケルソ)などが参加しています。 1950年代中頃にキャピトル・レコードに籍をおいたバップ&ソウル・テナーのプラス・ジョンソンは1963年にHenry Mancini(ヘンリー・マンシーニ)が音楽を担当したテレビ漫画の「The Pink Pantherピンクの豹)」のテーマ曲でテナーを演奏しています。 一夜にして夢のような大金持ちとなった旅好きのジーン・ヴィンセントは精力的に地方公演のスケジュールを組みましたが家族持ちのメンバーはついていけなかったようです。 当然ジーン・ヴィンセントの家族、つまり過去4人の妻たちもついていけず、浮気の噂も相俟って全員別れてしまったようです。
※ちなみにジーン・ヴィンセントのヒット曲の"Woman Love"はオリジナルだと思っていたのですが、Lonely Soldier Boy(悲しき少年兵)が日本でも有名なソングライターのJack Rhodes(ジャック・ローズ)の作曲で"Country Preacher"が一番人気でWilson Pickettウィルソン・ピケット)とも共演したブルース・ギタリストのJimmy Johnson(ジミー・ジョンソン)が最初に歌った曲です。

6.MOVIN' AND GROOVIN'・・・DUANE EDDY
7.RAMROD・・・DUANE EDDY

デュアン・エディの出身地はニューヨークですが、幼少の頃にアリゾナ州のクーリッジという町に引っ越し、そこで育ちました。ローティーンの頃から卓越したギターの才能を見せた彼は、地元のカントリー・ミュージシャン達のバッキングを務めるようになり、アリゾナ州の最大の都市であるフェニックスのクラブやラジオ局に出入りするようになりました。そうした中でラジオのディスクジョッキーだったリー・ヘイゼルウッドと出会います。ヘイゼルウッドは既にDJのかたわらでレコード・プロダクションにも手を染め、いくつかのヒット曲も出しており、デュアンとの出会いと前後してDJを辞め、本格的にプロデューサーとしての活動を始めることになります。
ヘイゼルウッドはデュアンに低音を強調した奏法を勧めると共に、サックスとギターのバトルという新しいインスト形式を発案します。こうしてデュアンのデビュー曲「Moovin' N' Groovin'」が1957年11月に録音され、翌年初頭に発売されます。この曲は全米72位までしか上がりませんでしたが、続く「Rebel Rouser」が見事に全米6位まで上がる大ヒットとなり、デュアンはいきなりスターの座に上り詰めることになります。 また、ロサンゼルス出身ではありませんが、デュアンのサウンド作りに大いに貢献した人物に、やはり後にロサンゼルスでセッション・ミュージシャンとして活躍することになるアル・ケイシーがいます。ケイシーはデュアンのヒット曲のいくつかを作曲したり、また曲によってベース、リズム・ギター、ピアノと様々な楽器を担当し、デュアンのサウンドを支えました。後のセッション・ミュージシャン時代に明らかになるようにケイシー自身が優れたギタリストなので「デュアンのレコードでリード・ギターを弾いているのは本当はケイシーだ」という噂が飛んだりもしました。(実際にプレーしている曲もあるようです。)
尚、デュアンの音楽がサーフ・インストの基礎となったことは前述の通りですが、それを示す面白い実例として、ビーチボーイズの「Surfin' USA」のイントロはデュアンの「Moovin' N' Groovin'」をパクッたものです。



8.MATCHBOX BLUES・・・BLINDE LEMMON JEFFERSON
9.MATCHBOX・・・CARL PERKINS

1957年にカール・パーキンスによってヒットした曲で、ビートルズとしても1964年のEP盤でリンゴがボーカルをとっている曲として発表されたが、元々は1927年にテキサスの偉大なブルースマンであるブラインド・レモン・ジェファスンによる曲がオリジナルです。ブラインド・レモン・ジェファスンの「マッチボックス」は3種類の音源が残されています。OKとParamauntに2種ですが、この音源は最初のOK音源で、ビートがより強いヴァージョンです。

10.MY BONNY・・・RAY CHARLES

ビートルズは、下積み時代に「シルバー・ビートルズ(Silver Beetles)」という名で活動していた時期がある。60年1月にスチュアート・サトクリフがメンバーに加わってから、8月にピート・ベストをドラマーに迎えて初のハンブルク巡業に旅立つまでのころだ。ジョンのバンド「クオリーメン」の名は、ジョン、ポール、ジョージがトリオで活動していた59年後半は「ジョニー&ザ・ムーンドッグズ」に変わった。スチュが加わると、「ビータルズ(Beatals)」、「シルバー・ビーツ(Silver Beats)」、「シルバー・ビートルズ」とめまぐるしく名を変えた。小文字の「e」の1個が「a」に変わる。
ジョン、ポール、ジョージ、スチュ、ピートの5人となったビートルズは、リバプールのナイトクラブの経営者アラン・ウイリアムズの斡旋で、’60年8月16日からドイツのハンブルグへ行く事になる。彼らは、ハンブルグの、”インドラ・クラブ”で、1週間に7日(つまり毎日)、1日8時間の演奏をする事となる。しかし2ヵ月後に”インドラ・クラブ”は閉鎖され、ビートルズは”カイザー・ケラー”に出演する事となる。ビートルズの人気は日増しに上がっていった。中でも、ポールが一番の人気だったという。
カイザー・ケラーには、ビートルズの他に、ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズが出演していた。このバンドのドラマーこそが、後にビートルズのドラマーとなるリンゴ・スターである。
リンゴはビートルズのステージをいつも見ており、ビートルズとリンゴは、この時期に初めて出会うこととなる。『18歳未満は夜間のクラブへの立ち入りを禁止する』という法律を破っていた当時17歳のジョージが、国外退去を命じられリバプールに戻る。カイザー・ケラーよりも格上の”トップ・テン”での出演が決まっていた彼らであったが、’60年の11月にポールとピートが、寝泊りしていた映画館の屋根裏でボヤ騒ぎを起こし、彼らが労働許可書を持ってなかったことが発覚。。。国外退去処分となり、リバプールへ戻る。。。やがて、ジョンもスチュもリバプールへと戻ることとなる。憧れの”トップ・テン”での彼らの演奏は、たった一晩だけで終わってしまった。失意の中、ハンブルグから帰国したビートルズ…。ポールに至っては、ヤケになり、音楽をやめ、トラックの運転手になると真剣に思っていたそうである。
しかし、ブライアン・ケリーのプロモートで、'60年12月27日に行なわれたリザーランドのタウン・ホール・ボール・ルームで行なわれたコンサートは大盛況。'61年2月9日、リバプール最大のクラブ、”キャバーン・クラブ”に初出演。以後レギュラーバンドとなる。ビートルズの人気は確実に上がっていった。ポールが「ロング・トール・サリー」を歌うと、ファンの興奮は絶頂にのぼりつめていた。
4月1日には、再びハンブルグへと行き”トップ・テン”にも出演する。
6月22日には、トニー・シェリダンの「マイ・ボニー」のレコーディング・セッションに参加。
7月には、ベースギター担当だったスチュアートがバンドを脱退し、ドイツ人の恋人アストリット・キルヒヘアと、ハンブルグに残ることとなる。この時以降・・・ポールがベースギターを担当する事となる。
人気は確実に上がっていったが・・・ビートルズの人気は、まだまだリバプールハンブルグの限られた地域だけのもので、そこから一歩出れば、まだまだ無名のバンドであった。(ハンブルグに残ったスチュアートは'62年4月10日に脳挫傷の為死亡。享年21歳)


11.WHEN THE SAINTS GO MARCHING IN・・・BANK JOHNSON AND NEW ORLEANS BAND
12.SAINTS ROCK'N'ROLL・・・BILL HALEY AND HIS COMETS

聖者の行進(せいじゃのこうしん、When The Saints Go Marchin' In)は、黒人霊歌の一つ。ディキシーランド・ジャズのナンバーである。「聖者が街にやってくる」という邦題でも知られる。元々は、アメリカ合衆国の黒人の葬儀の際に演奏された曲。ニューオーリンズでは、埋葬に行くときには静かな調子で、埋葬の時は悲しげに。埋葬が終わると、この曲でパレードをして帰っていく。

13.NOBODY'S CHILD・・・HANK SNOW

カントリー歌手には Hank が多い。天才 Hank Williams を筆頭に Hank Thompson、そしてこの、ギターの名手 Hank Snow。彼はカナダの生まれだが、少年時代にラジオで流れた Jimmie Rodgers を聴いてカントリーに傾倒、二十歳前にはラジオ出演を果たすようになる。'40年代からはアメリカに進出し、'50年に「I'm Movin' On」が大ヒット(Rolling Stones のカバーでロックファンにも有名)。以後、'99年に没するまで数々の名曲を生み出し、リリースしたアルバムも100枚以上にのぼる。