27回目の曲目

2010年9月4日(土)15:00〜16:00
今回はビートルズがカバーしたオリジナル曲特集です。実は壮大な企画で1回や2回では終わりません。ビートルズがデビューする前のクオリーメン時代、ハンブルグのスタークラブ時代、デッカレコードのオーディション・テープ、トニー・シェリダンとのドイツ・ポリドール音源、BBC出演音源、EMI正規盤、ゲットバック・セッション音源、等を合わせると100曲以上になります。こればかり毎回やるのも問題なので、2回続けたら、別の特集をして、又2回続けるという方法で進めます。

ロック・アイランド・ライン・・・ ロニー・ドネガン

プッテイング・オン・ザ・スタイル・・・ ロニー・ドネガン

ベイビ・レッツ・プレー・ハウス・・・ アーサー・ガンター

ベイビ・レッツ・プレー・ハウス・・・ エルビス・プレスリー

カム・ゴー・ウイズ・ミー・・・ デル・バイキングス

トゥエンティー・フライト・ロック・・・ エディー・コクラン

ギター・ブギー・・・ アーサー・スミス

ギター・ブギー・シャッフル・・・ バーチュアーズ

ギター・ブギー・シャッフル・・・ ベンチャーズ

ザットル・ビー・ザ・ディズ・・・ バディー・ホリー

ハレルヤ・アイ・ラブ・ハー・ソー・・・ レィ・チャールズ

ハレルヤ・アイ・ラブ・ハー・ソー・・・ エディー・コクラン

アイル・オールウェーズ・ビー・イン・ラブ・ウィズ・ユー・・・ ファッツ・ドミノ

ザッツ・ホェン・ユア・ハートエイク・ビギン・・・ インク・スポッツ

ザッツ・ホェン・ユア・ハートエイク・ビギン・・・ エルビス・プレスリー

1.ROCK ISLAND LINE・・・LONNIE DONEGAN

1956年1月からLonnie Doneganの「ROCK ISLAND LINE」が英国で脚光を浴び、大流行した。これはスキッフルという種類の音楽で、この流行は1957年頃まで続いた。レッドベリーの「ロック・アイランド・ライン (Rock Island Line)」のテンポを速めたドネガンのバージョンは、ウォッシュボードをフィーチャーした(ティーチェスト・ベースは使っていない)演奏で、B面には「ジョン・ヘンリー(John Henry)」を収めたSP盤は、1956年の大ヒットとなった。この曲はトップ20に8ヶ月も居座り、最高位は6位(米国でも8位)になった。また、イギリスでは初めて、デビュー・レコードがゴールドディスクになった曲であり、世界中で100万枚以上が売れた。
John Lennonが最初に手にしたレコードはこのLonnie DoneganのROCK ISLAND LINE (78rpm)だった。このROCK ISLAND LINE (78rpm)は後日、親友でバンド仲間のロッド・デイヴィスに売ってしまう。


2.PUTTING ON THE STYLE・・・LONNIE DONEGAN

1957年7月6日 リバプールのウールトン聖ピーター教会の庭先会場にて
毎年行われる地元の夏祭り、それが世紀のミュージシャンとなる二人を出会わせた。Paulは、学校の友人、Ivanに誘われ、夏祭りに行くことを決めたが、以前からJohnのことは知っていたという。「Johnは近所で札付きの不良少年だったからね。」「知り合いになる前は、目があったら殴られるぞって思ってた。」 「今でも鮮明に覚えているんだけど、お祭りのの会場に入ると、よくある出店屋なんかがあったんだけど、会場の一番端にステージがあって、バンドがそこにいた。」Paulがステージに到着したとき、QuarrymenはDell Vikingsの'Come Go With Me'を演奏していた。
「バンドはよかったよ、特にボーカルのヤツがね。チェックのシャツを着て、髪をカールさせて、長いもみ上げで、そして何よりも歌がよかった。それが僕の友人になる、Johnだった。」
Quarrymenは当時リバプールで流行りのスキッフルグループの一つだった。その日Quarrymenが演奏したのは、メンバーの記憶に拠れば、 'Rock Island Line', 'Railroad Bill', 'Be-Bop A-Lula', 'Puttin' On A Style', 'Baby Let's Play House'といった曲だ。「僕は特にJohnに魅かれた。僕自身ギターを弾いたり歌ったりしてたから、彼の歌い方に魅了された。それに歌詞も面白かった。」「彼は自分で歌詞をつけてたんだ。」「それってなかなかおもしろいだろ。」

当時のメンバーは
John Lennon【ジョン・レノン】担当ギター
Pete Shotton【ピート・ショットン】担当ウォッシュボード(nowhere Vol.19によるとティーチェスト・ベース)
Eric Griffiths【エリック・グリフィス】担当ギター
Rod Davis【ロッド・デイヴィス】担当バンジョー
Colin Hanton【コリン・ハントン】担当ドラムス
Bill Smith【ビル・スミス】担当ティーチェスト・ベース(nowhere Vol.19によるとウォッシュボード)
Ivan Vaughan【アイヴァーン・ヴォーン】担当後任ティーチェスト・ベース
Nigel Whalley【ナイジェル・ウェイリー】担当後任ティーチェスト・ベース
Len Garry【レン・ギャリー】担当ベース であった。

1957年6月9日The Quarrymen LiverpoolのEmpire Theatreで初の公式ステージ。
1957年6月22日Roseberry Street【ローズベリー・ストリート】のトラックの上でライブを行う。

1957年7月6日The QuarrymenはSt. Peter's Church, Wooltonの夏祭りに参加し演奏している。

Quarry Bankの学友のGeoff Rhindがその時の様子を撮影している。「The Quarrymenが演奏しているのを観るのはその時が初めてだった。ヴォーカル用のマイクとアンプしかなかったのにとにかく大きな音で、当時そんな大きな音を出したりはしなかった。僕は母から誕生日プレゼントにKodakのカメラをもらったんだ。僕はとてもシャイだったけれどどうしても彼らの写真が撮りたくて群衆をかきわけて進みそのカメラで1ショットだけ撮ったんだ。」
Rod Davisによると写真の中でJohnはバンジョーのCのコードを押さえているとのこと。


3.BABY LET'S PLAY HOUSE・・・ARTHUR GUNTAR
4.BABY LET'S PLAY HOUSE・・・ELVIS PRESLEY

オリジナルはルイジアナブルースマン、アーサー・ガンターの1954年の作品で、プレスリーが翌年の55年4月に4枚目のシングルとして発表している。

5.COME GO WITH ME・・・THE DELL VIKINGS

デル・バイキングスは、56年の秋、グループの最初のシングル「 How can I find true love・Baby, let me know」 でデビューを果たした。「How can I find true love 」は典型的なリズム・アンド・ブルースバラードで、地元のラジオでヒットの兆しが見え始めた12月初旬、ローカルレーベルFee-Bee はB面の「 Baby, let me know」 を表面にして再発している。57年1月の第2週に、「How can I find true」をリリース、この時のB面が「 Come go with me」 であった。リリース当初は、ほとんどのDJが 「Come go with me」 に注目しなかったが、ピッツバーグからヤングスタウン・クリーブランドあたりで、徐々に話題になり、シングルの注文が殺到しはじめた。注文に応じきれなかった Fee-Bee は、およそ3週間後に Dot と取引をしている。
地元での販以外はすべて Dot がおこなうという内容で契約が交わされた。57年2月の第1週に Dot から「 Come go with me」 はリリースされ、それまでの供給不足も手伝って爆発的売れ、1週間後には全米チャートに登場するほどの大きなヒットとなった。

6.TWENTY FLIGHT ROCK・・・EDDIE COCHRAN

夕方のステージを終えたQuarrymenは、教会から道を挟んだ場所にあるホールで、夜のステージのためにリハーサルをしていた。小学校の体育館程度の小さなホールで、二人は運命的な出会いを果たす。
「そこにはピアノがあって、それからバンドメンバーのギターなんかもおいてあった。」「そこでしばらく僕らはぶらぶらしてたんだ。Ivaが僕をJohnに紹介した。」 「あの日これが弾けたから、僕はビートルズになれたんだ」Paulは「そこにあった誰かの、多分ジョンの」ギターを手にとるとEddie Cochranの'Twenty Flight Rock'を歌い始めた。完璧なコードと完璧な歌詞で。ただ事ではなかった、レコードを手に入れるのさえ難しい時代に、Paulの演奏は完璧だった。しかも彼は、利き腕と逆のギターを見事にチューニングし、さらにギターを肩に回して弾くという荒業までやってのけた。「Johnは衝撃を受けていたようだったよ。」「Paulの'Twenty Flight Rock'には感心させられた。あいつは確かにギターが上手かった」「それにエルビスにも似ていた。要するに、僕はあいつに惚れたんだ。」 さらにPaulはピアノで、Little Richardのメドレーを弾いて魅せた。「Johnは僕の肩ごしに、ビールくさい息を吹きかけながら「おい、すげぇな」とかなんとか言って、あまりいい印象じゃなかったな(笑)」

Quarrymenが夜のセッションを終えると、QuarrymenとPaulはパブに打ち上げに行った。15才になったばかりのPaulは年齢を偽らなければならなかった。「僕はビールなんて飲んだこともないくせに、イキがって「僕ももらおうかな」なんて、必死で付き合ってたよ。」「スポーツジャケットとか着てなんとか年上に見えるように装ってね。」「だけど誰かが喧嘩を始めてパニックになったんだ。突然パブで怒号が飛び交ってさ」「まぁ結局大したことにはならなかったんだけど、僕の少年時代の恐怖の思い出の一つだな」「でもとにかく僕らはそこでいい時間を過ごしたよ、バンドの夜のギグもよかった」
これが今から53年前の、Liverpoolの夏の暑い日の物語。
奇跡のすべてはここから始まった。

エディー・コクランはミネソタ州アルバート・リアという小さな町に誕生した。1955年、ハンク・コクラン(血縁関係なし、後にカントリー・ミュージックの作詞作曲者となる)と「コクラン・ブラザーズ」というデュオを組むと同時に、セッション・ミュージシャンとしても活動を始める。その後ソロになりメジャーレーベルのリバティレコードと契約。1956年には、映画「女はそれを我慢できない」に出演し、作中で「トゥエンティ・フライト・ロック」を演奏する。さらに1957年に発表したジョン・D・ローダーミルク(タバコロードの作曲もあり自身の歌もある。)が書いたシングル「シッティン・イン・ザ・バルコニー」が最初にヒットとなる。
そして、彼の代表曲(マネージャーのジェリー・ケイプハートとの共作)「サマータイム・ブルーズ」が1958年6月11日に発売されると、9月にはビルボードの8位まで上昇する。
その後も「カモン・エヴリバディ」「サムシン・エルス」「マイ・ウェイ」「スリー・ステップス・トゥ・ヘヴン」などのヒットを連発する。シャロン・シーリーはコクランのガールフレンドとなり一緒に曲を作ったり、ツアーに同行したりしてしていた。

シャロン・シーリーと共作の1959年のSomethin' Elseの前に出したC'mon Everybody(カモン・エヴリバディ)が今までとは逆転してイギリスでの方が評判が良いと聞き、エディ・コクランは、これ又本国よりイギリスで人気の高いジーン・ヴィンセントシャロン・シーリーも同行しての1960年英国公演ツアーに出掛けます。
余りに評判だったので予定を延ばしたほどでしたが、イースター祭のため帰国しようと空港へ向かう途中の1960年4月16日、タクシーが街灯に衝突して大破する自動車事故に遭いました。 ジーン・ヴィンセントは肋骨と鎖骨の怪我に留まりましたが、21歳のコクランは脳に損傷を受けて翌日帰らぬ人となりました。




7.GUITAR BOOGIE・・・ARTHUR SMITH
8.GUITAR BOOGIE SHFFLE・・・THE VIRTUES
9.GUITAR BOOGIE SHFFLE・・・THE VENTURES


1957年10月18日に、ジョンに会った約3ヵ月後に、ポールはQuarrymenで彼の初のギグを行いました。ギグはリバプール西ダービー保守党員クラブでありました。ポールはギターを演奏しています。 『ギターBoogie』は、ノースカロライナ州出身のアーサー・スミスが1948年に発表したシングルでした。ビルボードC&Wの上で#1、ポップチャートで#25にランクされました。

1948年にミュージシャンたちがストをしている間、レコード会社は、レコードとして発売できる新たな素材をかき集めていた。MGMレコードの社長は、倒産したレコード会社と契約を交わし、2年前にアーサー・スミスが録音した音源を買い取った。それらをMGMがレコードとして発売すると、「ギターブギ」というタイトルの単純な即興演奏が、すぐにカントリーチャートとポップチャートの両方で評判を呼んだ。アーサー・スミスは1921年4月1日にサウスカロライナで生まれ、音楽一家の中で育った。彼は兄弟とカントリーのトリオを結成し、30年代半ばにRCAからレコードを出した。アーサーはまだ中学生だった。彼は、ギターのほかに、フィドルマンドリンバンジョーを演奏し、特にフィドルの演奏は彼のギター奏法に引き継がれている。また、ジャンゴ・ラインハルトの影響を受けた。第二次大戦中は海軍に入隊し、メリーランド州ベインブリッジの基地からワシントンDCにかよって、アーウィン・フェルドのスーパーディスク・レーベル所属のセッションギタリストとして、シスター・ロゼッタ・サープ、マリー・ナイト、エロール・ガーナー、スラム・スチュワートらのバックを務めた。白人のカントリーミュージシャンだったにもかかわらず、1940年代半ば、エボニー・マガジンの「ギタリスト・オブ・ザ・イヤー」に二度選出された。スミスは、ワシントンのKストリートにあるNBCラジオ局で録音したことを次のように回想する。「私はテネシーランブラーズと録音していた。セッションが終わると、アーウィンが「まだ5分残っているが、誰かなんかないかな?」と言うので、兵舎で弾いたとき仲間が気に入ってくれたブギを提案した。テネシーランブラーズには5人いたが、全員は必要なかったので、リズムギターとベースギターだけを参加させて、「3つのコードだけだ」と言って、コードを教えた。」「曲を演奏するのに没頭していたので、まわりのことがわからなかった。当時レコードには最大3分20秒しか録音できなくて、終りが近づくと、コントロールブースの連中が腕を大きく振って、私の注意をひこうと必死だった。幸いなことに、3分18秒で終わらせることができた。もう3秒長ければ、そのテイクを使うことができなかっただろう。」50年近くたって「ギターブギ」を聞くと、とても現代的に聞こえる。リズムギターが単純なコードをかき鳴らす間(ベースはほとんど聞こえない)、スミスは、アンプなしのマーティンD27をフィンガーピッキング奏法で器用に演奏する。標準的なブギウギのリフから始まり、2番、3番と進むにつれ、異なる演奏を繰り広げる。「トミー・ドーシーの「ブギウギ」が元ネタだと思う。当時、カントリーもブルーズも聴かず、ビッグバンドを聴いていたから」とスミスは言う。ドーシーの「ブギウギ」は、ブルーズマンのクラレンス”パイン・トップ”スミスの非常に影響力が強い「パイン・トップのブギウギ」(ポップチャート20位、1929)に由来する。
海兵隊時代の仲間の一人にフランク・バーチュオーソというギタリストがいて、バーチュオーソ・トリオを結成した。1959年、彼はスミスの曲を「ギターブギシャッフル」というタイトルに変えて、ポップヒットを放った。

追記:ロックンロールが一儲けできるものになったとき、スーパーディスクの所有者アーウィン・フェルドは、全米を回る一夜興行ツアーに熱心だった。バディ・ホリー、ビッグ・ボッパー、リッチー・バレンスが1959年に飛行機事故で亡くなったのは、アーウィン・フェルドのウィンター・ダンス・パーティ・ツアーの最中だった。

ベンチャーズのヴァージョンはリードギターノーキー・エドワーズでもジェリー・マギーでもなくハービー・マンデルです。ハービー・マンデルは1970年だと思いますが、ジョン・メィオールと一緒に来日して有楽町にあった日劇でコンサートをしています。私は見ています。ハービー・マンデルはアメリカ人でキャンド・ヒートというブルースロックのバンドにもいました。このキャンド・ヒートにはアル・ウィルスンという人がいて、ベンチャーズのドン・ウィルスンの弟です。若くしてドラッグの影響で亡くなりました。また、ラリー・テイラーというベーシストがいてメル・ティラーの兄貴です。


10.THAT'LL BE THE DAY・・・BUDDY HOLLY

ジョン・ウェイン主演映画『The Searchers』の一節から引用した『That'll Be The Day』を56年7月22日にレコーディングしたが、DECCAレコードは興味を持たず<Buddy Holly and The Three Tunes>名義のシングルは失敗に終わった。諦めきれずに名プロデューサーのノーマン・ペティーの元、改めてデモテープを作り、大手レコード会社に売り込むが、唯一興味を持ったのがDECCA傘下のCoral/Brunswickだった。そしてDECCAでのセッション契約が含まれていなかったTHE CRICKETS名義でCoral/Brunswickからリリースし、見事全米第1位のヒットとなった。

『ロックンロールの死んだ日』
クリケッツのメンバーと次のコンサート地であるノースダコタ州のファーゴに向かうに当たり、ツアーメンバーのビッグ・ボッパー(J.P.リチャードスン=Radio DJ)とリッチー・バレンスは当初バスでの移動が決まっていたが、クリケッツのメンバーとコイントスの賭けで勝ち、座席を手に入れた。
4人乗りのビーチクラフト・ボナンザ機は雪の中、午前1時5分に離陸した。パイロットは21才のロジャー・ピータースン、59年2月2日アイオワ州のコーン畑に飛行機は墜落し、バディー・ホリー、ビッグ・ボッパー、リッチー・バレンスの3人は逝った。バディー・ホリーの活躍はわずか3年であった。ドン・マクリーンの『AMERICAN PIE』でも歌われている59年2月2日は『ロックンロールの死んだ日』と言われる。


11.HALLELUJAH I LOVE HER SO・・・RAY CHARLES
12.HALLELUJAH I LOVE HER SO・・・EDDIE COCHRAN

レイ・チャールズは6歳の頃仲の良かった弟のジョージ・ロビンソンを亡くした。その9ヵ月後緑内障のために失明した。目が見えないというハンディを背負いながらもピアノを学び、また盲学校に通う。1947年にシアトルに移り、この頃クインシー・ジョーンズと出会う。初期の頃はレイ・ロビンソンの名で活動、この頃よりマリファナやヘロイン等の麻薬に手を出している。後に同名のボクサーがいる為、ミドルネームのレイ・チャールズに改名。自己バンドでツアーを行っているうちに、アトランティック・レコードより声を掛けられ契約する。1959年の「ホワッド・アイ・ セイ」が自身初のミリオンセラーである。人気を高める一方で、ゴスペルを大胆にアレンジしていたことから敬虔なクリスチャンからは非難されていた。

1959年にアトランティックとの契約切れを期にABCレコードと契約、1961年に代表曲の一つとなる「わが心のジョージア」を発表、ミリオンセラーを記録。一方でこの曲は大衆化してしまったと批判する者もいた。


13.I'LL ALWAYS BE IN LOVE WITH YOU・・・FATS DOMINO

ファッツ・ドミノFats Domino, 1928年2月26日 -, ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ)は、R&Bとロックンロールの歌手、作曲家、ピアニスト。
本名は、アントワーヌ・ドミニク・ドミノ。1950年代から1960年代初期にかけてアメリカで最も売れた黒人歌手のひとりである。ストライド奏法とブギウギの影響を受けた独自のブルース調のスタイルでピアノを演奏した。代表曲は、"Blueberry Hill"、"Ain't That A Shame"、"Walking To New Orleans"、"I'm Walkin'"、"Blue Monday"など多数。

1949年、インペリアル・レコードより"Detroit City Blues"でデビュー。B面に収録された"The Fat Man"がR&Bチャート2位の大ヒットを記録する。インペリアルには1963年まで在籍し、デイヴ・バーソロミューのプロデュースと共作のもと、数多くのヒットを世に送り出した。1963年にABCレコードへ移籍するものの、以後インペリアル時代に匹敵するヒットは生まれていない。


14.THAT'S WHEN YOUR HERTACHES BEGIN ・・・THE INK SPOTS
15.THAT'S WHEN YOUR HERTACHES BEGIN ・・・ELVIS PRESLEY


1932年にインク・スポッツInk Spotsというドゥワップのコーラスがデビューしました。1936年にリード・テナーのBill Kennyがリーダーとして加わり、本格的になり40年代まで黄金時代があります。1939年に"If I Didn't Care"がミリオンセラーになりました。なんと1900万枚売れとたいうのです。現在もビッグネームは活き続けているのです。ギター1本の伴奏で唄うのがもともとのスタイルなのですが、どの曲も同じ循環コードのイントロで始まります。/C C#dim/Dm7 G7/C C#dim/Dm7 G7/です。
このグループのアレンジは、1コーラスが終わると必ず低音のナレーションが入ります。このグループではWinleyが喋ります。リードはDenbyが唄っていますが、Hachettも唄うらしいです。スタイルは70年前と変わっていないのです。日本ではキングトーンズが彼らのスタイルをまねています。グッドナイト・ベイビーがヒットしました。

1940年代から早くもオリジナルメンバーの間で、分派活動が次々と起こっていきました。オリジナルのDeek WatsonがBill Kennyと上手くいかなくなり別れ、Charlie Fuquaは軍隊に行っている期間があります。兵役が終り、一旦はBill Kennyのところに戻りましたが、後に自分のグループを結成して分かれたのです。Hoppy Jonesは1944年に死んでしまいましたので分派はおこしていません。
それ以来、今までにおよそ30系統のグループが分派して、総数が199グループ、関わったメンバーの人数は273名まで調べられています。とにかく目まぐるしいほどの烏合衆参を繰り返したわけです。
変わらないことはと言えば、すべてのグループがIf I didn't care・・・と唄い続けてきたことです。Bill Kennyは苦々しく思って見ていたことでしょう。そのBill Kennyのグループは50年代半ばまで続き立ち消えてしまいます。

1953年の7月にプレスリーが4ドルを投じてサム・フィリップスが経営するメンフィス・レコーディング・サービスで自主制作されたアセテート盤、「My Happiness」のB面に吹き込まれた曲です。
プレスリーは、この1年後にSUN RECORDSからデビューします。