57回目の曲目

ジェフ・バリーとエリー・グリニッチの特集です。

初期のロックンロールの楽曲はアーティスト自身による自作か、ブルース、カントリー、R&Bのカヴァーだった。しかし、初期のロックンロール・シンガー達は作曲よりも歌唱を得意とする人たちであった為に曲作りのアイディアはすぐに枯渇し、カヴァーの中にもロックンロールに適した曲が無限にあるわけではない。そこで、ロックンロールがポピュラー音楽の中に占める位置が大きくなるにつれて、ロックンロール向きの新曲を大量に生み出す仕組みが求められるようになった。

こうした需要に応えたのが1958年頃から続々と登場したアルドン・ミュージック (Aldon Music)、ヒル・アンド・レインジ・ソングス(Hill & Range)などの新興の音楽出版社だった。これらの会社はキャロル・キング&ジェリー・ゴフィン、ジェフ・バリー (Jeff Barry) &エリー・グリニッチ (Ellie Greenwich) などの若手作曲家チームを抱え、ロックンロール向きの新曲を次々と送り出した。

このような動きがもたらしたロックンロールの変化は、第一に一握りの天才的なアーティストが主導する時代から、企業によってシステム的にロックンロール作品が作られる時代に入ったことである。これは、音楽出版社の抱える楽曲ストックの中から優れた楽曲を見出すA&Rマン(プロデューサー)の重要性が増すことによってもたらされた変化である。このようにマクロな経済構造に組み込まれ、商業的にならざるを得なかったロックンロールだが、そのような商業支配の構図に対してときにその経済構造に組み込まれたアーティスト自らが異議を唱える、といった自己矛盾を底流に持ち続けてきたのもまた、ロックンロールの類稀な特性といえる。

エリー・グリニッチは、1940年にニューヨーク州ロングアイランドで生まれ、2009年8月26日にマンハッタンで死去しました。”ブリル・ビルディング・サウンド”を代表する作曲家です。

少女時代からロックンロールに夢中な女の子で、当時のエリーのアイドルは<シレルズ>!彼女達の歌う『WILL YOU LOVE ME TOMORROW』を聴いて、その時自分で作っていた曲と似ている事に自信をつけ、ソングライターの道を目指す事になります。1964年にフィル・スペクターと離れ、レッド・バード・レーベルで「Chapel of Love」、「Goodnight Baby」などの初期の曲の8割方を作詞・作曲し、1965年から67年にかけてはバング・レーベルでも同様の役割を果たしました。
ジェフ・バリーという1960年代に活躍した重要なソングライター・チームの2人とエリー・グリニッチの妹ローラ・グリニッチによって結成されたグループですので、まずはソングライター・チームの2人の経歴を簡単に説明したいと思います。エリー・グリニッチは1940年、ジェフ・バリーは1938年にアメリカのニューヨークのブルックリンで生まれ、歌手志望だった2人は偶然にも1958年にRCAレコードから、エリー・グリニッチは"エリー・ゲイ"という芸名で「Silly. Isn't It?」、ジェフ・バリーは「It's Called Rock And Roll」という曲(2曲とも未聴)でそれそれデビューしますが、全く成功しませんでした。その後エリー・グリニッチは歌手活動をしばらく続けますが、ジェフ・バリーは1959年にE・B・マークスという音楽出版社と契約したのを機にソングライターに転向し、作詞家のベン・ローリーと組んで書いた「Tell Laura I Love Her(ローラに好きだと云ってくれ)」(全米7位)をレイ・ピーターソンに提供したところ、大ヒットして成功を収めます。
1960年後期に二人は離婚して、グリニッチは音楽から離れていましたが、1973年にヴァーヴからアルバムを出し復帰しました。




曲目

1.Da Doo Ron Ron・・・The Crystals
2.Be My Baby・・・The Ronettes
3.Chapel Of Love・・・The Dixie Cups
4.I Got To Go Back・・・The McCoys
5.I Can Hear Music・・・The Beach Boys
6.River Deep,Mountain High・・・Eric Burdon & The Animals
7.Do Wah Dee Dee・・・The Exciters
8.Hunky Panky・・・Tommy James & The Shondels
9.Don't Ever Leave Me・・・Connie Francis
10.Out In The Street・・・The Shangri-Las
11.Good Night Baby・・・The Butterflys
12.Baby Be Mine・・・The Jelly Beans






1.ダ・ドゥ・ロン・ロン・・・クリスタルズ

1963年、6枚目のシングルは彼女たちの代表曲となる「ハイ・ロン・ロン」(Da Doo Ron Ron)。この曲も最初はダーリーン・ラヴとブロッサムズによってレコーディングされたが、リリース直前になってスペクターはラヴのリードのみを"ラ・ラ"・ブルックスのものに差し替えた。


2.ビー・マイ・ベイビー・・・ロネッツ




ザ・ロネッツの最大のヒット曲は、やはり1963年の「Be my baby」(邦題:私のベイビー)で、フィル・スペクターのWall of Soundとベロニカのヴォーカル、グループのハーモニーから間奏のタイミングなど全てが絶妙にマッチして、ガールズ・サウンドの最高峰と言える傑作です。


3.愛のチャペル・・・デキシー・カップ




1962年10月にエリー・グリニッチとジェフ・バリーは結婚し、2人はソングライター・チームを組むことになります。1963年にはフィル・スペクターが主宰するフィレス・レコードへの楽曲提供が始まり、クリスタルズの「Da Doo Ron Ron(ハイ・ロンロン)」(全米3位)、「Then He Kissed Me(キッスでダウン)」(全米6位)、ロネッツの「Be My Baby(あたしのベイビー)」(全米2位)などが大ヒットして大成功を収めます。そして、1964年にはリーバー&ストーラーが設立したレッド・バード・レコードにも曲提供を開始し、ディキシー・カップスの「Chapel Of Love」(全米1位)、シャングリラスの「Leader Of The Pack(黒いブーツでぶっとばせ〜リーダー・オブ・ザ・パック)」(全米1位)が見事全米No.1を獲得します。またこの時期はこのコンビの楽曲で元々あまりヒットしなかった曲のカヴァー・ヴァージョンがヒットするようになり、その中ではエキサイターズがオリジナルでイギリスのビート・グループのマンフレッド・マンがカヴァーした「Do Wah Diddy Diddy」(全米1位)、サミッツ(未聴)がオリジナルでトミー・ジェイムズ&ザ・ションデルズがカヴァーした「Hanky Panky」(全米1位)が一番成功したといえます。また1965年にはバート・バーンズのバング・レコードでも活動し、ニール・ダイアモンドを発掘したりします。また1966年にはアイク&ティナ・ターナーに提供した「River Deep, Mountain High」(全米88位)がフィル・スペクターによってプロデュースされますが、当時アメリカではヒットせず、イギリスではトップ10ヒットとなり、このコンビの代表的な楽曲のひとつとして挙げられることとなります

4.アイ・ゴット・トゥ・ゴー・バック・・・マッコイズ

1965年から67年にかけてはバング・レーベルでも曲作りに励みました。


5.アイ・キャン・ヒア・ミュージック・・・ビーチ・ボーイズ




 

ロネッツの1966年のヒット曲のカヴァー。アルバム『20/20』に収録。「アイ・キャン・ヒア・ミュージック」のオリジナルはフィレスから66年に発売されたロネッツのシングルで、全米チャート100位というマイナー・ヒットとなった曲です。
ラリー・ルレックスの「アイ・キャン・ヒア・ミュージック」はあきらかにビーチ・ボーイズに影響されたバージョンであることはお分かりいただけるかと思います。さてではこのラリー・ルレックスという変わった名前のシンガーは誰か?ご存知の方も多いかもしれませんがクィーンのフレディ・マーキュリーその人です。ブライアン・メイとロジャー・ティラーが在籍していたバンド=スマイルにフレディ・マーキュリーがボーカルとして参加しいつしかクィーンという名前で活動するようになりEMIと契約し73年にレコード・デビューします。
「I CAN HEAR MUSIC」(ビーチ・ボーイズのカヴァー曲)のタイトルのシングルで、B面が「GOIN' BACK」(ジェリー・ゴフィン&キャロル・キングのカヴァー曲)・・・フレディにとってはある意味デビュー・シングル。

6.リバー・ディープ・マウンテン・ハイ・・・エリック・バードン・アンド・ズィ・アニマルズ



1966年、アイク・アンド・ティナ・ターナーは、「リヴァ−・ディープ - マウンテン・ハイ」(River Deep ? Mountain High)をレコーティング(アイクは録音に参加せず、ティナの単独レコーディング)。 アメリカではビルボード・ホット100の88位までしか上がらずスペクターを失望させたが、英国で3位まで上昇する大ヒットとなった。



7.ドゥ・ワ・ディディ・・・エキサイターズ



エキサイターズ版の「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」は64年に全米78位止まりと、あまりヒットはしなかったが、エリー自身とてもお気に入りの1曲だったため、とても残念がり、自らのグループ、レインドロップスでも吹き込んで、レコードを発売しようとした矢先、マンフレッド・マンのヴァージョンが大ヒットしたため、レインドロップス盤は発売を見送ることとなった。
 


8.ハンキー・パンキー・・・トミー・ジェームス・アンド・ションデルズ


Jeff Barry と Ellie Greenwich 夫妻が The Raindrops として63年にレコーディングした、シングルのB面用の埋め草的な曲でした。
トミー・ジェイムズ&初代ションデルズはすかさずこの曲をカヴァーしましたが、全米規模のヒットにはならず、2年という歳月が流れました。初代ションデルズはほどなく自然消滅しており、66年に入って突如この曲の人気が高まった時にはトミーにはバンドがついていませんでした。
そこで二代目ションデルズが募集されたんです。新生トミー・ジェイムズ&ザ・ションデルズは、あらためて 「ハンキー・パンキー」 をルーレット・レコードに売り込みに行き、今度こそ全米でのリリースに漕ぎ着けました。
というわけで 「ハンキー・パンキー」 に関しては、レコーディングした時のメンバーとヒットした時のメンバーはまったく違っていたわけです。



9.ドント・エヴァー・リーヴ・ミー・・・コニー・フランシス


どんなソングライターにだって、ヒットしなかった佳曲というのはたくさんあるものです。今日はそういう曲のひとつ、ちょっとした成り行きでヒットしなかった、コニー・フランシスの1964年のシングル、「ドント・エヴァー・リーヴ・ミー」(Don't Ever Leave Me)です。


10.アウト・イン・ザ・ストリート・・・シャングリ・ラ

白人女性4人組のグループですが一人ステージ恐怖症の人がいますのでステージでは3人しか出てこないとか写真も3人しか写っていないとかいろいろありますがですね。64年の「リーダー・オブ・ザ・パック」の後に「アウト・イン・ザ・ストリート」というヒット・ソングがありますが、これも結構、イギリスでは特に非常に有名な曲でありますが、ブロンディがデモ・テープに録った最初の曲が「アウト・イン・ザ・ストリート」だったりするというエピソードが残っております。


11.グッドナイト・ベイビー・・・バタフライズ


オールディーズ・ファンの間では、このバタフライズというのは架空のグループで、実際は作者のエリー・グリニッチがひとりで歌っているというのが、長いこと定説とされていたが、少し前にイギリスのエイス・レーベルからリリースされたエリー・グリニッチとジェフ・バリーの作品集『ドゥ・ワ・ディディ』内のブックレットには、その噂は誤りであり、バタフライズはブルックリンに実在したグループであると書かれてあった。

12.ベイビー・ビー・マイン・・・ジェリー・ビーン






1962年に結成、レッドバード・レコードから発売。
ボーカルがエリー・グリニッチにとても似ている。1965年に解散。