56回目の曲目

第3回目の歌謡曲特集です。

キャンディーズは人気が高いようで・・・

1.赤い靴・・・ 田端 典子  加藤 登紀子

2.自動車ショー歌・・・ 小林 旭

3.サハリンの灯は消えず・・・ ジェノバ

4.別れても好きな人・・・ パープル・シャドウズ

5.ラスト・チャンス・・・ 内田 裕也とフラワーズ

6.あなたが欲しい・・・ ハプニングス・フォー

7.真っ赤な太陽・・・ 黛 ジュン

8.骨まで愛して・・・ 城 卓也

9.思い出ボロボロ・・・ 内藤 やす子

10.ダンスはうまく踊れない・・・ 石川 セリ

11.わな・・・ キャンディーズ




1.赤い靴・・・田端 典子  加藤 登紀子



発表はされなかったものの、1978年になって発見された草稿には、以下の5番もあった。

生まれた 日本が 恋しくば
青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう)
異人さんに たのんで 帰って来(こ)


誰もが知っている童謡「赤い靴」、この詩は大正10年(1921)に野口雨情によって書かれ、翌大正11年(1922)に本居長世が作曲したものです。
この赤い靴の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという人の投稿記事がきっかけでした。

 「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」。

この記事を当時北海道テレビ記者だった菊地 寛さんは5年あまりの歳月をかけて「女の子」の実像を求め、義妹である岡そのさんの母親の出身地静岡県静岡市清水 区をかわきりに、そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の 異人さん、宣教師を捜し、「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたのです。


女の子の名は「岩崎きみ」。明治35年(1902)7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。
きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。 明治40年(1907)のことです。
鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。明治41年(1908)、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれています。
「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」

雨情は明治41年(1908)に長女を生後わずか7日で亡くしています。おそらくそんな日常の生活の中でかよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したのでしょう。
きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に赤い靴の女の子のイメージが刻まれ、「赤い靴」の詩が生まれたのではないでしょうか。雨情は 、また夭折した長女を「・・・生まれてすぐにこわれてきえた・・・・」と「シャボン玉」に詠ったと言われています。
後年、赤い靴の歌を聞いた母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子・・・」とよく歌っていたそうです。その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていたのです。 



ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。しかし、意外な事実がわかったのです。きみちゃんは船に乗らなかったのです。
ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核 に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのです。薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年(1911)9月15日の夜でした。
きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治27年(1894)に開設された鳥居坂教会の孤児院でした。 麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取って明治27年頃に開設したのが始まりでした。この子供のための施設は、はじめ麻布一本松にありましたが、明治37年麻布本村町に孤児院として開設され、明治41年には麻布永坂町50番地へ移転、「永坂孤女院」とよばれました。昭和3年には「永坂ホーム」と改称ています。今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地に女子の孤児を収容する孤女院があったことは、「麻布区史」にも書かれています。
3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。温かい母の胸にすがりたかったでしょう。それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いでした。
この街、麻布十番に眠ったきみちゃんを思うとき、赤い靴の女の子「きみちゃん」の心安らかなことを祈り、今、私たちの幸せを心から喜び感謝しなければならないと思います。
母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、皆さまの幸せを祈って、平成元年2月28日(1989)麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。


この「定説」には「捏造」が含まれているという説が作家の阿井渉介によって提唱された。阿井は、1986年(昭和61年)、静岡・日本平に「母子像」が建立された際、地元テレビ局静岡放送が制作した記念番組『流離の詩・赤い靴はいてた女の子』の構成台本を依頼され執筆したが、このとき菊地本や、『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』に示された「定説」の事実関係に不審を抱き、のちに「定説」の矛盾点を追究するに至ったという。そして、著書『捏像 はいてなかった赤い靴』(徳間書店 2007年12月 ISBN 4-19-862458-5)において、「定説」には根拠がないとする批判を明らかにした。

阿井による説は以下の通りである。

1.きみの実父を佐野だとする菊地本には根拠がない。きみが戸籍上、佐野の養女になっているのは、私生児を祖父の戸籍に入れる措置に準じて考えるべき。
2.菊地本で養親に比定されている宣教師の名前は、正しくはヒューエット。ただしヒューエット夫妻と、きみの間には全く接点がない。「きみが宣教師の養女となった」という話は佐野がかよを安心させるためについた嘘であり、実は佐野が2歳のきみを東京の孤児院に預けて、きみはそこで一生を過ごしている。この時期、北海道で布教を行なっていたヒューエット夫妻が、北海道に渡ってもいないきみを養女とすることはありえない。
3.菊地本は「宣教師の養女になったきみのことを、かよから聞いた雨情が詩にした」とするが、かよが雨情夫妻と言葉をかわす機会はそう多くなかったはずで、自分が結婚前に私生児を産んだと進んで告白するとも思えない。野口家と鈴木家との親交は、夫同士の仕事上のつきあいと社会主義についての語り合いに限られたものとおぼしい。
4.雨情の『赤い靴』は社会主義ユートピア運動の挫折の隠喩と解すべきだ。
阿井は、菊地は自分の取材不足を想像で埋めたとして「捏造」と論難しているが、これに対して菊地は自説の骨子には誤りはないと主張している。

また阿井は、野口雨情の実息である野口存彌による研究をもとに「童謡『赤い靴』を含む雨情の童謡に特定の個人を謳ったものはない」と主張している。一方、菊地は、『赤い靴』以外にも特定個人を謳った童謡は存在するとしている。『シャボン玉』の詩にある「生まれてすぐにこわれてきえた」という一節に、雨情は夭折した長女への哀悼をこめたとしており、詩の解釈論でも両者は対立している。

なお、「きみは宣教師の養女となって渡米したものと、かよは生涯信じきっていた」という「かよの観点からの真実」については両者に争いはない。その宣教師が「実在するヒュエット師」(菊地説)であるか、「佐野がでっちあげた架空の存在」(阿井説)であるかで、両者およびその支持者は対立しており、阿井は「きみと会ったこともない、全く無関係のヒューエット夫妻の名誉を、菊地はテレビ番組制作のための作り話で傷つけている」としている。

また、阿井は、雨情の『赤い靴』は「きみを謳ったものではない」と作家論からの立証を試みると共に、「宣教師の養女になったきみのことを、かよから聞いた雨情が詩にした」という話は、「かよの思いこみによる自慢話を、娘そのや菊地が更に粉飾したもの」と批判している。ただし「雨情さんがきみのことを詩にしてくれた」と、かよがそのに語った事実は「あった」としている。そのため、「かよによる『赤い靴』の詩歌解釈」そのものは否定しきれていない。この点では「雨情の作家論」と「かよによる詩歌受容」と「菊地の追跡取材のプロセスの是非」を、両派ともに整理できず混交して論じているため、議論は噛み合っていない。








2.自動車ショー歌

自動車ショー歌は、作詞:星野哲郎、作曲:叶弦大の歌謡曲。1964年(昭和39年)に小林旭が歌いヒットした。1965年(昭和40年)製作の映画『投げたダイスが明日を呼ぶ』の挿入歌として使用された。
オリジナル歌詞の1番に存在した「ここらで一発シトロエン」のフレーズが、1959年に日本民間放送連盟により定められた要注意歌謡曲指定制度基準に抵触し、放送禁止処分を受けたため、程なく「ここらで止めてもいいコロナ」に変更して吹き込み直し、再発売されている。


3.サハリンの灯は消えず


 「サハリンの灯は消えず」     
昭和43(1968)年2月
作詞:若木
作曲:北原じゅん
演奏:ザ・ジェノバ

 サハリンの灯は 今なお消えず
 俺の心に 赤く燃える

 懐かしき山 姿もかすみ
 海峡の風 白く凍る

 北国の夏は 恋に似て 短い命
 暮れなずむ浜辺 フレップは 淋しく赤く

 サハリンの灯を 恋して咲いて
 故里(ふるさと)捨てた 俺を泣かす

 この霧の陰に涙ぐみ 思い出捨てた
 あの女(ひと)のくれたフレップは 初恋の味

 サハリンの灯は 今なお消えず
 俺は一人で じっと見てる

樺太(カラフト)引揚者の望郷の念を、グループサウンズが歌っていたことは意外だった。

フレップは「食用になる小さな赤い実」のアイヌ語だが、ここでは「コケモモの実」である。コケモモは本州では「高山植物」だが、樺太には平地でもありふれて多産し、食用にされていた。

北原 じゅん(きたはら じゅん、1929年 - )は、日本の作曲家、編曲家、作詞家である。本名菊地 正巳(きくち まさみ)、別筆名文 れいじ(ぶん れいじ)。『兄弟仁義』、『骨まで愛して』、『愛の執念』、『命くれない』等のヒット曲、『まんが日本昔ばなし』の主題歌と劇伴音楽で知られる。日本クラウン専属作家。
1929年(昭和4年)、当時日本領であった樺太(現在のロシア共和国サハリン)に生まれる。弟の正規はのちの歌手・城卓矢(菊地正夫)、作詞家・川内康範は叔父(叔母の元夫)にあたる。第二次世界大戦中に父が死去、引き揚げて室蘭市で育つ



4.別れても好きな人


1968年の結成当時、グループ・サウンズ人気は既に下降線をたどり始めていたが、他のグループ・サウンズとは異なるムード歌謡的な曲調の「小さなスナック」の大ヒットを飛ばす。だがその後はヒット曲に恵まれなかった。その後メンバーの脱退・加入を繰り返し、1980年代には「今井久&パープル・シャドウズ」名義で活動した。
1980年にロス・インディオス&シルヴィアが大ヒットさせた「別れても好きな人」は、パープルシャドウズが本家である。元はシャッフルのリズムだったが、ロス・インディオス&シルヴィアのカバーバージョンは落ち着いたムード歌謡調にアレンジし直されている。

5.ラスト・チャンス



ザ・フラワーズは、ロカビリー歌手の内田裕也が1967年11月に、元ブルー・ファイヤーの麻生京子、タイガースのボーヤだった千葉ひろし、そして、ザ・レインジャーズの小林勝彦、和田ジョージ、橋本健、奥進の4人を加えて「銀座ACB」でステージデビューした。当初、加瀬邦彦の作曲した「愛するアニタ」でレコードデビューする予定でいたが中止となってしまった。レコードデビューする前の1968年7月には千葉ひろしが病気療養の為に抜け、代わりにスパイダースのボーヤだった中村ケントが加入。1969年1月、待望のレコードデビューを果たした。サイケデリックを売り物にしたグループではあったが、最初のシングルは「ラスト・チャンス」という歌謡曲調のものだった。のちに発売されたアルバム「チャレンジ!」だけがニュー・ロック調の曲ではあったが、2枚目のシングルも歌謡曲調の歌であり、内田裕也の目指す方向性のものと掛け離れた曲となってしまった。1970年には、バンドの再編を図りメンバーを一新、名前も「フラワー・トラベリン・バンド」と改名、ニューロックに参入していった。
麻生レミ(本名:土生京子 )1944年3月5日/東京都生まれ、ザ・フラワーズに参加する以前は、麻生京子 名義にて1960年からは "ジャッキー吉川ブルーコメッツ" でヴォーカルとして参加した事もあり、和製ワンダージャクソンと言われ活躍していたロックンロールシンガー。1962年5月に「ハンガリア・ロック」でレコード・デビューを果たした。1965年に "麻生京子とブルー・ファイア" に加入。1967年、ザ・フラワーズ参加にあたり麻生レミに改名した。" フラワー・トラヴェリン・バンド " には参加せず渡米。その後、ロックバンド "麻生レミ&WYND" を結成、ライブを中心に活躍した。

6.あなたが欲しい


1964年、福岡市博多で結成されたラテンロックバンド「サンライズ」が母体。1966年、ミッキー・カーチスにスカウトされ上京し、ナイトクラブやキャバレーなどで活動する。
1967年、黛敏郎らの命名で「ザ・ハプニングス・フォー」と改名し、同年11月11月5日、シングル「あなたが欲しい」でデビュー。



7.真っ赤な太陽


GSブームの頃、女性歌手がミニスカートでエレキをバックに歌う、これを世に“1人GS”という。1人GSの代表格、黛ジュンが、68年のイメージ・チェンジ曲「夕月」の次に、
本来の姿に戻ってリリースしたのが、69年の「不思議な太陽」。この曲のイントロは、ある大御所のヒット曲によく似ている。67年、美空ひばりさんがブルコメをバックに歌った「真赤な太陽」。
当時、「真赤な太陽」のヒットにあやかろうと黛ジュン所属の東芝が、ひばり所属のコロンビアに4曲入りコンパクト盤に「真赤な太陽」をカヴァー収録したいと打診し、双方での話もスムーズにまとまったので早々にレコーディングしプレスも開始となった時点で、ひばり関係者からNGが出てお蔵入りになった言われた事件。
で、その約1年半後にリリースされたシングル「不思議な太陽」のタイトルとイントロが「真赤な太陽」にどかか似ていると…

一部で根強く囁かれている「美空ひばりに略奪された曲」という噂の出所は、あまりにも「黛ジュンが歌うべくして作られたような曲」であったがために、この騒動を挟んで「黛ジュンがカバーするはずだった」という話が徐々に歪曲されていき、それが最終的に・・・案外そんなとこだったりして。 お蔵入り音源が日の目を見たのは、吹き込みから四半世紀以上も経った1994年、美空ひばりが亡くなってから5年後。

8.骨まで愛して


城 卓矢(じょう たくや, 1935年11月28日 - 1989年5月9日)は、日本の歌手、作曲家である。本名・作曲家名は菊地 正規(きくち まさき)、1966年の改名前の芸名は菊地 正夫(きくち まさお)。ヨーデルを得意とし、独特のハスキーとこぶしが特徴で魅力的な声の持ち主であった。

1935年(昭和10年)11月28日、当時日本領であった樺太(現在のロシア共和国サハリン)に生まれる。兄の正巳はのちの作曲家・北原じゅん(文れいじ)、作詞家・川内康範は叔父(叔母の元夫)にあたる。第二次世界大戦中に父が死去、引き揚げて室蘭市で育つ
1966年(昭和41年)1月、城卓矢と改名、心機一転して『骨まで愛して』をリリース、140万枚[4]を売り上げる大ヒットを飛ばして有名歌手の仲間入りを果たす。



9.思い出ボロボロ

1975年に「弟よ」でデビュー。翌1976年の「想い出ぼろぼろ」が大ヒットし、この年の新人賞を総なめにする。翌年の大麻不法所持で一時芸能活動を停止した後、1984年にリリースした「六本木ララバイ」がヒットし、1986年の「あんた」は映画「極道の妻たち」のテーマ曲としてカラオケの定番となる。1989年の「NHK紅白歌合戦」に初出場。ディナーショーなどを中心に歌手活動を続けていたが、2006年5月28日、脳内出血で倒れて緊急入院。同年7月6日に退院してからは自宅療養中であるが、病後の後遺症が残っており、2011年現在もまだ歌手活動再開の目処は立っていない。




10.ダンスはうまく踊れない


「ダンスはうまく踊れない」は井上陽水が妻となる石川セリと付き合い始めの頃、気を引くために目の前で30分ほどで作ってプレゼントした曲。当初、井上も前田一郎ディレクターも「気まぐれ」のB面のつもりだったが、最終的には「ダンスはうまく踊れない」をA面として発売され、ヒットした。後年、高樹澪がカバーしリバイバル・ヒットした時には、「私のための曲をなんで他の人が歌うのよ。」とご立腹だったという。ほかにも日野美歌中森明菜徳永英明らがカバーしている。


11.わな

キャンディーズの最高傑作のひとつ。キャンディーズの育ての親とも言える穂口雄右(元アウト・キャスト!)。

そよ風のくちづけ(編曲)
なみだの季節(作曲/編曲)
年下の男の子(作曲/編曲)
内気なあいつ(作曲/編曲)
その気にさせないで(作曲/編曲)
春一番(作詞/作曲/編曲)
夏が来た!(作詞/作曲/編曲)
わな(作曲/編曲)
微笑がえし(作曲/編曲



1.年下の男の子
2.アン・ドゥ・トロワ
3・春一番
4.夏が来た
5.わな
6.その気にさせないで
7.やさしい悪魔
8.哀愁のシンフォニー

この中で1、3、4、5、6が穂口雄右の作曲です。 3、4は作詞も穂口雄右!珍しいです。



横浜  「紅い靴」 チョコレート
パッケージ・デザインは3種類あります。「紅い靴」の歌詞カード付きです。