55回目の曲目

新春にバラッド名曲集です。

1.愛の泉・・・ フランク・シナトラ

2.アイム・ア・フール・トゥ・ケア・・・ レス・ポール&メリー・フォード

3.ラヴ・ミー・・・ エルヴィス・プレスリー

4.ロシアより愛をこめて・・・ マット・モンロー

5.アイ・ラヴ・ハウ・ユー・ラヴ・ミー ・・・パリス・シスターズ

6.ハニー・・・ ボビー・ゴールズボロ

7.リリース・ミー・・・ エンゲルベルト・フンパーディンク

8.兄弟の誓い・・・ ホリーズ

9.マイ・ウェイ・・・ ポール・アンカ

10.シー・ウェアズ・マイ・リング・・・ ソロモン・キング

11.ゴーイン・バック・・・ ダスティースプリングフィールド





1.Three Coins In The Fountain・・・Frank Sinatra

背を向けて願をかけコインを放ると望みが叶うと言われるローマのトレビの泉を一躍有名にした、50年代ハリウッドお得意の観光映画の主題曲としてヒットしました。映画のタイトルは、愛の泉(1954)です。

1915年、ニューヨーク市近郊のニュージャージー州ホーボーケンでイタリア系アメリカ人の家庭に出生した。1930年代初頭、当時ラジオで人気を得ていたビング・クロスビーの歌声に憧れて歌手を志す。1939年には当時大衆的な人気が高かったトランペッター、ハリー・ジェイムスの楽団「ミュージック・メイカーズ」の専属歌手としてプロデビューする。その歌唱スタイルはクロスビーの影響下にあるクルーナースタイルであった。クルーナーと呼ばれるシンガー、ひとことでいえば朗々と歌い上げる「歌手」でしょうか。
フランク・シナトラとかビング・クロスビーなどがそうですが、50年代に入りポピュラー・ソングがポップスと変わっていくと同時に、どんどん少なくなっていくました。
 1940年には、やはり人気のあったトロンボーン奏者トミー・ドーシーオーケストラに引き抜かれ移籍して大活躍、10代の女性を中心にシナトラへの人気を決定的なものとした。1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、当時は新興レーベルだったポピュラー音楽界の有名レーベルであるキャピトル・レコードと1952年に専属契約。歌手としてのキャリアを積んだ結果、円熟の度を重ねた歌唱を発揮し、コロムビア・レコード時代の盟友アクセル・ストーダールとのコンビを解消、新たにネルソン・リドルビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズなどの優れた編曲家が指揮するオーケストラをバックに、スタンダード曲や、座付き作者とも言うべき作曲家ジミー・ヴァン・ヒューゼンと作詞家サミー・カーンらによる新曲を多数録音した。

こうして1950年代後半にキャピトルから多数送り出されたアルバムは、ジャズ的センスに富んだ質の高いものばかりで、シナトラの最盛期をこの時代とする批評家は多いです。またシナトラ+リドルの、シンガーとアレンジャーのコンビネーションは、アメリカのポピュラー音楽史上最高と言われています。

ケネディ大統領はシナトラから紹介された元恋人のジュディス・キャンベルと不倫関係を持っただけでなく、その死の直前まで不倫関係にあった女優のマリリン・モンローケネディ大統領に紹介したのもシナトラであった。


1966年、「夜のストレンジャー」がグラミー賞を獲得しシナトラ健在を世界中に示した。1969年にはフランスの歌手クロード・フランソワの楽曲「Comme d' habitude(コム・ダビテュード / いつものように)」にポール・アンカが英語詞を付けたナンバー「マイ・ウェイ」をヒットさせ124週に渡りシングルチャートに、51週に渡りアルバムチャートにとどまる大ヒットとなった(これは通俗的に流行したことで日本でもよく知られており、シナトラ=「マイ・ウェイ」のイメージが強い)。以降この曲は「ニューヨーク・ニューヨーク」「夜のストレンジャー」に並ぶシナトラの代表曲となった。



2.I'm A Fool To Care ・・・Les Paul & Mary Ford

レス・ポール(Les Paul、本名はLester William Polfuss、1915年6月9日 - 2009年8月13日)は、アメリカのギタリストでかつ発明家。ソリッドボディーのエレクトリック・ギター、「ギブソンレスポール」の生みの親である。
ポールは8歳のときに初めて音楽に関心を持ち、ハーモニカの演奏を始める。バンジョーを習った後、ギターを弾き始める。エディ・ラングやジャンゴ・ラインハルトなどに影響を受け、13歳までにカントリーミュージックセミプロ・ギタリストとして演奏活動を行っていた。
1949年、12月、メリー・フォードと3度目の結婚をする。Les Paul & Mary Ford At HomeというTVショーは7年も続いた。1951年、メリー・フォードとのデュオ「How High the Moon」が全米1位を獲得。1952年、ギブソン社初のソリッドギターレスポールが発売される。アンペックスからレスが開発した世界初の8トラック・テープレコーダーが発売される。



3.Love Me ・・・Elvis Presley



1954年、ジェリー・リーパーとマイク・ストーラーの作品、当初、2人が作った作品の中で最悪の曲だと言っていたが、1956年にエルヴィスが歌って、その評価を変えた。




4.From Russia with Love・・・Matt Monrou
 


1960年、「Portrait of My Love」が全英チャート2位に輝き、モンローはスター歌手としての地位を築いた。ヒットの仕掛人ビートルズのプロデューサーとしても知られるジョージ・マーティンである。他のヒット曲としては「Softly As I Leave You」、「ロシアよりを愛をこめて」(『007 危機一発』の主題歌)、「ウォーク・アウェイ」、「野生のエルザ」(原題『Born Free』)、「イエスタデイ」(ビートルズのカバー)、「All of a Sudden」などが挙げられる。モンローの歌声はフランク・シナトラと声質が似ていたので「British Sinatra」(英国のシナトラ)と呼ばれ、世界中の多くのファンを魅了した。

1964年4月の日本初公開時の日本語タイトルは『007 危機一発』。髪の毛一本の僅差で生じる危機的状況を意味する「危機一髪」と銃弾「一発」をかけた一種の洒落で、当時ユナイト映画の宣伝部にいた映画評論家の水野晴郎が考案したとされるが、1956年の東映映画『御存じ快傑黒頭巾危機一発』が既にあり、水野の独創ではなく、以前から使われていたという意見もある。

1972年に邦題タイトルを変えて小説タイトルに近い『007 ロシアより愛をこめて』としてリバイバル公開された。

1956年、デッカ・レコードからデビューして、バラードシンガーとして生涯絶大な人気があった。1960年、マット・モンローは、EMIの子会社パーラフォン・レコードに移籍した。そこで、ジョージ・マーティンのプロデュースで、世界に知られるシンガーになった。

マット・モンローは、1985年、肝臓ガンで亡くなる。54才だった。イギリスだけでなく、マット・モンローの世界的な成功をささえたのが、プロデューサーのジョージ・マーティンと作曲家ジョン・バリーだ。

「ラヴ・ミー・ドゥ / アースク・ミー・ホワイ」("Love Me Do / Ask Me Why")は、ビートルズのデビュー・シングル。1962年10月5日にパーロフォンから発売された。

2012年10月5日に発売50周年記念として、発売を予定していたが、セッション・ミュージシャンのアンディ・ホワイトがドラムのヴァージョンを間違って入れたため、一部が、ディラーに流れた後に気が付き回収騒ぎとなった。さらに間違いは続きB面のレコード番号が、マット・モンローの「ポートレイト・オヴ・マイ・ラヴ」 Matt Monro "Portrait of My Love"の番号(45-R4714)が印刷されてしまった。

Matt Monro Portrait Of My Love/You're The Top Of My Hit Parade Parlophone 45-R4714

1960年、「Portrait of My Love」が全英チャート2位に輝き、モンローはスター歌手としての地位を築いた。ヒットの仕掛人ビートルズのプロデューサー,ジョージ・マーティンである。




5.I Love How You Love Me・・・The Paris Sisters


アルベス(Albeth)、シュレル(Sherrell)、プリシラ(Priscila)の三姉妹からなるグループ。1954年には、デッカからシングルを吹き込んでデビューしています。しかし、なかなかヒットがでませんでしたが、1961年にGregmark Labelからフィル・スペクターのプロデュースで「Be My Boy」(56位)を出し、続く「I Love How You Love Me」(忘れたいのに)が大ヒット(5位)して名前が知られるようになりました。
続く「He Knows I Love Him Too Much 」も34位に入っています。61年から62年がヒット曲を出していた時です。デビューが早かったので、このころ、彼女らはまだ十代です。

64年にはマーキュリーレーベルに移籍し、ボビー・ダーリンのドリーム・ラバーをカバーして小ヒット(91位)させました。66年にリプリーズに移籍して、LP(Sing Everything Under The Sun!)を吹き込んでいますが、グループとしての活動はここまでです。




6.Honey ・・・Bobby Goldsboro


ボビー・ゴールズボロは1941年1月フロリダ州マリアンナ生まれ。 10代でアラバマ州に引越し, オーバーン大学に進学しますが音楽家になるために2年で中退し, 『オー・ブリティ・ウーマン』で有名なロイ・オービソンのバックバンドのギタリストになります。
1964年にはソロ歌手としてデビュー, 自らのペンによる "See the Funny Little Clown." がトップ・テン入りします。 
それからいくつかのヒット曲を出しますが, 世界的に有名なヒット曲は悲劇的な花嫁の死を歌った『ハニー(Honey)』 (1968)でしょう。 この歌はアメリカで5週間1位を維持した上に, イギリスでは1975年にリバイバルヒットしています。
もともとこの『ハニー』という曲はキングストントリオのボブ・シェーンが録音しましたが、それを聴いたボビー・ゴールズボロがもっとシンプルなアレンジにしたほうが良いと考えそのように録音したところ大ヒットにつながったわけです。


ほら見てごらん あの大きな木を あれはね
あのこが植えた 小さな苗だよ あれはね
あのこがいない今でも やさしくささやく
ぼくの心に 思い出の歌をささやく
あのこに子犬をあげた 思い出のクリスマスイブ
おそくまではしゃいで いっしょに遊んでいたっけ
あのこも子犬も 疲れて眠った夜明けに
眺めてひとりで しみじみ思った幸せ
懐かしいあの頃は もう二度と帰らない
けんかした時は いつでも決まってあのこは
しょんぼりうなだれ 何も言わずに出て行き
小鳥が歌う花咲く野原に たたずみ
日暮れの寂しさに そっと戻って来たっけ
懐かしいあの頃は もう二度と帰らない
あのこがひとりの 寂しい夜更けに天使は
迎えの翼で あのこを僕から奪った
夜の涙は 眠れない枕を濡らして
昼の涙は 思い出の庭にこぼれる
見上げる空には 白い雲だけが流れて
あのこを偲ぶ 大きな木だけが揺れるよ
ほら見てごらん あの大きな木を あれはね
あのこが植えた 小さな苗だよ あれはね
あのこがいない今でも やさしくささやく
ぼくの心に 思い出の歌をささやく





7.Release Me ・・・ Engelbert Humperdinck

エンゲルベルト・フンパーディンク(Engelbert Humperdinck, 1936年5月2日 - )はポピュラー音楽の歌手。本名はArnold George Dorseyで、第二次世界大戦中に父が駐屯していたインドで育った。芸名はドイツの作曲家エンゲルベルト・フンパーディンクに由来する。今日では《ヘンゼルとグレーテルHansel und Gretel 》のみが有名だが、この他にも《いばら姫Dornroschen 》や《王子王女Konigskinder 》、《いやいやながらの結婚Die Heirat wider Willen 》などのメルヘン・オペラを作曲している。
Release Me(リリース・ミー)はカントリーのソングライターであるEddie Miller(エディ・ミラー)が作曲した1946年の曲で、歌ったのは1954年に同じくカントリーのRay Price(レイ・プライス)やKitty Wells(キティ・ウエルス)、1962年には女性R&BシンガーのLittle EstherがEsther Phillips(エスター・フィリップ)として吹き込み、1970年にはElvis Presleyエルヴィス・プレスリー)も録音しています。

ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」("Strawberry Fields Forever")は、1967年2月にビートルズが発表した14枚目のオリジナル・シングル曲である。
しかしこの史上最強シングル(ストロベリーフィールズフォーエバー/ぺニーレイン)が、英国で12枚連続で続いていた第1位獲得が出来なかった(最高第2位、エンゲルベルト・フンパーディンクの「リリース・ミー」をとうとう抜けなかった。)というのも世界7不思議のひとつである。





8.The Hollies ・・・ He Ain't Heavy, He's My Brother



これはホリーズ最大のヒット曲であり、2度チャートを駆け上った名曲です。のっけからアランクラーク節が冴え渡る英国人の好きな曲ですね。グラハムが抜けた直後にこの名曲が生まれ、さぞかしグラハムもマラケッシュ急行に乗って帰国したかったはずです。この曲・歌詞がBeatlesのワイディングロードへインスパイアさせてようです。ピアノはメジャーデビュー前のエルトンジョンです。

道は 長い
幾重も曲がって
私たちを誰も知らないところへ連れて行く
誰も知らないところへ

でも私は強い
とても強いから背負うことができる
重くなんかない 
私の兄弟だもの

こうして私たちは行く
このひとの幸せが私の気掛かり
でも重荷なんかじゃない 
耐えられないほどじゃない
きっと私たちはあの地に着く


だってわかっているから
足手まといにならないことを
重くなんかない
私の兄弟だもの

もし私が重荷を背負っているとしたら
それは悲しみという重荷を背負っていること
その悲しみは だれもの心が
喜びに満ちている訳ではないという悲しみ
愛し合う喜びに満ちていないという悲しみ


長い 長い道
ここからはもう引き返せない
でも私たちがあの地に向かうあいだ
分かちあえばいい


そうしたらこの荷は
ぜんぜん重くなんかならない
重くなんかない
私の兄弟だもの

そうしたらこの荷は
ぜんぜん重くなんかならない
重くなんかない
私の兄弟だもの

そうしたらこの荷は
ぜんぜん重くなんかならない
重くなんかない
私の兄弟だもの

重くなんかない
私の兄弟だもの・・・・





9.My Way ・・・ Paul Annka

マイ・ウェイ」は、「コム・ダビチュード」というフレンチ・ポップスである、ということです。後にシナトラやシド・ヴィシャスらが歌ったのは、歌詞が英語の「訳詞」、タイトルも英語に改題してあるだけです。


1968年ごろ、フランスのポップ・スター、クロード・フランソワが創唱してヒットさせた「コム・ダビチュード」をこの年にパリを訪れたポール・アンカがを聴き、とても気に入ったらしく、この曲を管理している音楽出版社を訪れています。
そして英訳詞をつけることを申し出たのです。ですから「マイ・ウェイ」は正規の手続きを踏んだ「訳詞ヴァージョン」というわけです。その証拠にJASRACのデータ・ベースにもキチンと作曲者の欄にクロード・フランソワの名前は表記されています。


マイウエイ(私の生き方)

そして今、終わりの時が近づいた

もうすぐ私の歩んできた道に幕が降りようとしている

友よ、でもこれだけははっきりと言える

決して嘘偽り無く誇りをもって

波乱に満ちた道程だったけれども

困難にもでくわしたけれども

私は一生懸命に生きてきた 自分の信ずるままに


後悔も少しばかりしたかもしれない

けれどそれよりももっと得るものがあった

そうだ そして私は自分の出来る限りのことをやって来た

決して何も思い残すことなどないように

自分が夢見たことや思い描いていたことを

時々思い悩みながらも けれどそれ以上に 

もっと自分の思うように信じる道を歩いてきたんだ.......


いまや(自分の人生も)その終わりが近づき

そして、自分は(今)最後の幕に直面しています
友人よ、はっきりと申し上げましょう
私の生き方を確信をもって述べましょう
私は充実した人生を送ってきたのです

どの道も残らず旅してきました...
ただ、普通の旅ではなかったのです
自分のやり方で歩んできたのです
いま思えば、後悔することは少しはあります...
しかし、申し上げるほどのことはほとんどありません
やるべきことはきちんとやってきました
しかもそれを、一切免除してもらうことなく最後までやりとおしました
そのどれにも海図をつくって、航路計画をたてたのです
未開拓の道をたどる着実な一歩一歩を計画したのです
それもただの計画ではなく
自分のやり方できちんと計画したのです
たしかに、君もご存じのとおり、こんなときもありました
つまり、自分で消化しきれる以上に、
仕事やいろいろなことを抱え込んで、しょいこみすぎた時もありました
でもそういういろんなことをやって、おかしいなと思ったときは
口にいれてから吐きだしましたよ

私は何にでもまともに対峙し、勇ましく堂々とした姿勢をとってきました

しかも 自分のやりかたでやってきたのです
愛し、笑い、泣きさけんだこともありました
欲しいだけ口にしたこともありました、敗北も人並みに味わいました
そうして今、涙がおさまってゆくにつれて

私は気がつく、 こうしたことはなにもかもが実に楽しいことだった
あれこれやったこと全部について 考えてみますと
私としては こう言っても差し支えない、つまり、びくびくしたやりかたで、
(やってきたのでは)なかったのだ、と
絶対そうでなかった、私にかぎっては違います
私は 自分のやりかたで ちゃんとやってきたのです
人は今この時点でその人なりのものを手にいれているのです
自分がほんとうの自分でないのなら、その人は 

自分が心から感じていることを言えないのです

膝まずいて(祈りを捧げて)いる人の言葉だって口にできないのです
いままでの記録が明らかにしているとおりで、私は連打のたたかいをしてきたのです
それも自分のやり方でやってきたのです





10.She Wears My Ring ・・・ Solomon King

元々は、「ラ・ゴロンドリーナ」”La Golondrina”という古いメキシコ民謡です。ローズマリー・クルーニーが1949年にシングル盤”WHEN YOU,RE IN LOVE”(タイトルも歌詞も違うが)として発表しました。
この美しいメロディに惹かれてアメリカのソングライターが英詞を付けたのが「WHEN YOU,RE IN LOVE」であり、「SHE WEARS MY RING」であったわけです。
黒人R&Bシンガーのジミー・ベルが1960年にレコードを出しました。エルヴィスはホーム・レコーディングで1960年にこの曲を取り上げ、1974年のアルバム「GOOD TIMES」に正式録音をしています。1961年には、ロイ・オービソンもレコーディングしています。
その後、1968年頃、カントリーの大スターであるレイ・プライスがカヴァーしてカントリー・チャートでヒットをさせています。 また、同じカントリーのビッグなシンガー、ハンク・スノウも取り上げています。
1968年にソロモン・キングがこの曲で大ヒットし成功しました。




11.Goin' Back ・・・ Dasty Springfield

キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの作品で、1965年に「Some Of Your Lovin'」をダスティーがヒットさせ、これを聴いたキャロル・キングが直々にダスティーに提供した曲。1966年にトップ10入りを果たした。