42回目の曲目

ビート・ポップス・クラブ始まって以来、始めての歌謡曲特集です。

1.ブンガチャ節・・・北島三郎
2.ヨイトマケの唄・・・丸山明宏
3.赤いハンカチ・・・石原裕次郎
4.再会・・・松尾和子
5.恍惚のブルース・・・青江 三奈
6.矢切の渡し・・・ちあきなおみ
7.八月の濡れた砂・・・石川セリ
8.別れの朝・・・ペドロ&カプリシャス
9.別れの朝・・・リッキーと960ポンド

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1.ブンガチャ節・・・北島三郎

1962年6月、別名「キュッキュラキュ節」とは、日本の歌謡史にその名を残す大歌手、北島三郎のデビュー曲にして、発売直後に放送禁止となった曰く付きの歌である。なお、本作の作詞は星野哲郎、作曲は船村徹となっているが、元が夜の盛り場で歌い継がれていた歌であるため、まったくアテにはならない。
あわせて、日本の歌謡曲の歴史において最も早い時期に宇宙旅行について歌った歌である。

歌手デビュー一年前の25歳の時に、『ゲルピンぽん太ちん太』の“ぽん太”として漫才コンビでのステージも経験。これは歌の師匠船村徹がステージ度胸をつけるためにやらせたらしく、お客さんに受けなかったため、ギャラは一切もらえなかったと云う。
妻は雅子夫人。北島夫妻が挙式したのは1959年11月。雅子夫人は当時、レコードデビューを目指す北島が都内で下宿していたアパートの大家の娘であった。北島がレコードデビューする約3年前の挙式だった。式に出席したのは両家あわせて21人だけだったという。北島は定収がなかっただけに、夫人の両親から結婚を反対されたと後に語っている。その後、北島は独身歌手としてデビュー(デビュー前の歌手に妻と子供がいるのは当時の芸能界ではありえなかった)。その後、結婚は週刊誌によってすっぱ抜かれた。

当時の人気のバロメーターはコンサート会場の紙テープであった。雅子夫人は、大量の紙テープを持ち込み、ステージめがけ、あちこちから投げたというエピソードがある。
キュッキュラキュ節 - なぎらけんいち( ↓ クリック!) (仕事中はダメよ ♪ )
http://www.youtube.com/watch?v=GqKiD2jFEHQ


2.ヨイトマケの唄・・・丸山明宏

美輪明宏(当時・丸山明宏)が自ら作詞作曲した1966年のヒット曲。
作詞作曲のきっかけは、興行主の手違いで炭鉱町の劇場でコンサートをすることになったことに始まる。当時きらびやかな衣装でシャンソンを歌っていた美輪は、炭鉱町でのコンサートに乗り気ではなかったのだが、炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、客席を埋め尽くしているのを見て衝撃を受け、「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」と感じて、労働者を歌う楽曲を作ることを決意したという。
初めて発表したのは1964年(昭和39年)、リサイタルにて歌唱。1965年(昭和40年)、NETテレビ(現在のテレビ朝日)『木島則夫モーニングショー』の「今週の歌」で発表したところ、非常に大きな反響を呼び、放送局には10万通を超える投書があり、異例のアンコール放送となった。この歌がきっかけで、同性愛者であることを公にして以降、低迷していた美輪が、再び脚光を浴びることになった。白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場し、戦後の復興期の貧しい少年から、高度成長期にエンジニアへと成長した凛々しい青年を演じた美輪の姿は、多くの視聴者の胸を打った。
シングルレコード発売は1965年7月。レーベルはキングレコード。レコード・CDとして発表されている音源はいくつか種類があり、発表当時と近年では使用楽器などアレンジが異なる。(オリジナルの1965年録音盤、1975年録音盤(アルバム『白呪』収録)、2000年録音盤が存在する)発表後間もなくして歌詞の中に差別用語として扱われる「土方」(どかた)「ヨイトマケ」が含まれている点などから、日本民間放送連盟により要注意歌謡曲放送禁止歌)に指定された事でそれ以降民放では放送されなくなる。この制度自体は1983年に廃止されたが、実際は廃止された後もしばらくの間この制度の影響を受け続けることになる。
2000年に桑田佳祐が自身の番組桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜にてこの歌を歌うことでおよそ10年ぶりに公共の電波に乗り、大きな反響を得る。この際には、テロップにて「この唄は、俗に放送禁止用語と呼称される実体のない呪縛により長い間、封印されてきた。今回のチョイスは桑田佳祐自身のによるものであり、このテイクはテレビ業界初の試みである」との説明が付されていたが、以降多くの歌手がテレビでも歌うきっかけとなった。なお、NHKでは発表当時から一貫して放送自粛の措置はとられておらず、美輪本人による歌唱はもとより、槇原敬之によるカヴァーも放送されている。
3.赤いハンカチ・・・石原裕次郎
どちらが最初盤かは不明


佐久間駿氏著著

1964年1月3日公開、「遊侠無頼」の小川英、山崎巌と「狼の王子」を監督した舛田利雄が共同でオリジナル・シナリオを執筆、舛田利雄が監督した歌謡ドラマ。撮影もコンビの間宮義雄。
4.再会・・・松尾和子

10インチLP

松尾和子は出自(ジャズ歌手)からか、歌が上手い歌手とされていますが、歌唱力よりも雰囲気(ムード)の人で、その悩ましげなヴォーカルスタイルが唯一無二です。単独での代表的ヒットは、何といっても1960年の「再会」です。「再会」はムード歌謡というより、シットリとしたポップ調の曲です。
歌詞は、切々と女心を歌うという歌謡曲得意のパターンです。歌詞の一番と三番は、それこそありふれた心象の描写ですね。
ところが、二番は異色です。恋愛とはほど遠いと想われる、「監獄」が突然出てきますから。「再会」は日本歌謡史上稀な、監獄を間に挟んだ愛の歌です。「再会」のシングルジャケットは、確かに女が刑務所の塀の前に立っています。



みんなは悪い ひとだというが
わたしにゃいつも いいひとだった



世間的な悪党になぜ惚れるのかは、不良がモテるのを考えれば分かります。  光と陰が同時にあるからです。
もちろん、悪党や不良がすべてモテる分けではなくて、良質の光と影を持っているごく少数の人だけです。
悪党の正統は裏社会に生きるヤクザですが、ヤクザの日常には死の影が潜んでいます。
その分、生に精彩があり、女はそこに魅かれるそうです。
これは、阿部譲二の著作に書いてあったことですが。

「再会」の歌詞で最も印象に残るのは、上記の二行です。
ある意味で、恋愛の本質かもしれません。
5.恍惚のブルース・・・青江 三奈
 初回盤


青江 三奈(1941年5月7日 - 2000年7月2日)は、東京都江東区砂町出身の歌手。本名は井原静子(いはらしずこ)。自身本来の生年月日は1941年5月7日であるが、芸能活動におけるプロフィール上では1945年7月7日としていた。
芸名は、川内康範が『週刊新潮』で連載していた小説「恍惚」のヒロインの歌手の名前に由来する。
高校在学時から東京・銀座の「銀巴里」でステージに立つ。高校卒業後、西武百貨店勤務の後、クラブ歌手となり、1966年、「恍惚のブルース」でメジャーデビュー。

6.矢切の渡し・・・ちあきなおみ
B面に収録された最初盤


1978年5月 発売、作詞: 石本美由起  作曲: 船村徹  原唱: ちあきなおみ
1982年10月21日に『矢切の渡し』をA面にしたちあき盤が発売(B面は『別れの一本杉』)。1983年に細川たかし瀬川瑛子、春日八郎 & 藤野とし恵、島倉千代子 & 船村徹など、7種のシングルによる競作で発売された。なお、細川盤の発売にあたって細川の所属する日本コロムビアはちあき盤(1978年当時日本コロムビアに所属、1983年当時はビクターに移籍していた)を生産中止にしている。
シングルレコードとして最も売れたのは細川盤であったが、当時のUSENのチャートではちあき盤が首位を独走していた。

ちあきなおみのオリジナルと細川たかしのカバーバージョンを比べると、作品のもつ深みは雲泥の差である。細川たかしはこの歌を例によって気持よく音吐朗々と歌い、歌に味も素っ気もない。「矢切の渡し」は歌詞をしっかり読めばわかるが、親の心にそむいて故郷を出奔するために、冷たい雨の降る夕暮に小さな渡し舟に乗って見えない未来に不安を抱えながら踏み出す男と女の物語である。女は男の心変りの予感に震えて、「見捨てないでね……」と懇願し、「どこへ行くのよ……」と小さな声で問う。ちあきなおみはこの男と女の不安と喜び、戸惑いと決意が交錯する遣り取りを、男と女の心情できちんと歌い分け、余韻嫋嫋の作品に仕上げている。ちあきなおみの「矢切の渡し」には人間ドラマがあるが、細川たかしの「矢切の渡し」からはいっさいそれが感じられない。
『歌伝説 ちあきなおみの世界』で、アメリカ民謡「朝日のあたる家(朝日楼)」の日本語バージョンを聴いて、そのリアルな表現力に言葉もなかった。孤独な女が最後に辿り着いたニューオリンズで春をひさいで身も心もぼろぼろになり、こんなふうになったら人生おしまいよと自虐的に歌う世界には、凄まじいばかりの現実感が漂っている。ファンの間で絶品と評されているが、それは充分わかる。こんな歌を歌えるのはちあきなおみだけだろう。
7.八月の濡れた砂・・・石川セリ

八月の濡れた砂』は、1971年8月25日に公開された藤田敏八監督の日本映画。この曲は日活映画「八月の濡れた砂」の主題歌として1972年にリリースされた石川セリのデビュー曲。日活と言っても、この作品は会社が傾いてロマンポルノに移行する直前の作品。
当時の日本映画はヌーベルバーグとかアメリカンニューシネマだとかの影響を受けた、退廃的な若者達を主題にした物が多く、たとえば夏が舞台になっていても、大騒ぎした後のなんかけだるくやるせない感情が漂う、どちらかと言えば暗い作品が多かった。
8.別れの朝・・・ペドロ&カプリシャス
9.別れの朝・・・リッキーと960ポンド



絶妙のタイミング(?)で発売されたCD(初CD化)




前野 曜子(1948年1 月25日 - 1988年7 月31日、本名は同じ読みだが「耀子」)は歌手、ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカル。東京都中央区銀座生まれ(江戸川区生まれとの説もある)。
1965年、川村高等学校を2年で中退し宝塚音楽学校に進む。1967年、宝塚歌劇団ヘ入団。同期は54名で当時の芸名は弓千晶。1968年宝塚歌劇団退団。伝説のディスコ赤坂「MUGEN」でゴーゴーガールを務める。宝塚時代に知り合った亀渕友香と「MUGEN」で再会し、リッキー&960ポンドに参加。翌1969年、『ワッハッハ』がヒット。この頃は西丘有里と名乗る。(亀渕友香は、亀淵昭信の妹)

1971年、リッキー&960ポンドと同じ事務所に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加。1972年に『別れの朝』が大ヒットする。翌1973年、人気絶頂だったにも関わらず脱退して単身渡米する。来日していた黒人歌手のアーノルド・スコットを追いかけ、突然に〝ペドロ&カプリシャス〟を飛び出したため。
しかし、数ヶ月後には失恋の帰国。就労ビザがなかったこと、黒人社会にとけ込めなかったこと。けっきょく恋人とも離れることになってしまった。 帰国後は、事務所に所属せずマネージャーもつけずにソロとしてライブハウスなどで歌手活動を再開する。1976年に古巣のリッキー&960ポンドに復活。1979年に映画『蘇える金狼』の主題歌(タイトル同じ)をリリース。同年末には『平凡パンチ』でセミヌードを公開する。1980年、映画『野獣死すべし』に、セリフのない役でカメオ出演。1982年から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌う。
アルコール依存で、ステージに穴を空けることが多かった。1988年7 月31日に肝臓病で死去。しかし、この事実をマスメディアが伝えたのは死の数年後で墓所も不明である。
原曲はオーストリアの歌手でウド・ユルゲンスの「Was ich dir sagen will」(夕映えのふたり)のカバーである。なお原曲の歌詞と、なかにし礼が担当した日本語詞はかなり異なっている。


1996年、ペドロ&カプリシャス二代目ボーカリスト高橋真梨子が、それまで封印していた「別れの朝」を、初めて歌った。