BUFFALO SPRINGFIELD

バッファロー・スプリングフィールドBuffalo Springfield)は、1966年4月に結成されたアメリカのロックバンドである。

1966年4月11日にハリウッドのナイトクラブ、トゥルバドールでデビュー。数日後にはザ・ディラーズ、バーズの前座としてカリフォルニアを短期間ツアーした。

ツアー終了後、バーズのクリス・ヒルマンがサンセット・ストリップの有名なナイトクラブ、ウィスキー・ア・ゴーゴーのオーナーに強く働き掛け、バッファロー・スプリングフィールドは1966年6月から2カ月間、ウィスキー・ア・ゴーゴーのレギュラーとして採用された。この間の演奏が評判を呼び、多くのレコード会社が彼らに興味を示した。彼らは最終的にアトランティックレコードとの契約を獲得し、アルバムのレコーディングに取り掛かかる。プロデューサーのチャーリー・グリーンとブライアン・ストーン(ともにソニー&シェールのマネージャーでもある)はヤングの声を気に入らず、ヤングの作品の大半のリード・ボーカルをフューレイに割り当てた。

アルバムのリリースに先立ち、ファースト・シングル"Nowadays Clancy Can't Even Sing" をリリースしたが、ロサンゼルスでトップ25まで上昇した以外に大した反響はなかった。1966年12月、ファースト・シングルも含むデビュー・アルバム『バッファロー・スプリングフィールド』をアトランティック傘下のアトコ・レーベルからリリース。

1966年11月、LAのナイトクラブ、パンドラ・ボックスの閉鎖に抗議してサンセット・ストリップに集まった若者の群衆に対し、警察が治安目的で働いた暴力的行為を目撃したスティルスは、彼のエポック・メイキングとなる曲 "For What It's Worth" を書いた。バンドはすぐにハロウィンの夜のウィスキー・ア・ゴーゴーのステージでこの曲を演奏、数日後にはレコーディングされ、ロサンゼルスのラジオ局KHJから流された。 この曲は翌年の3月までにはトップ10入りし、アトコ・レーベルは ファースト・アルバム収録の "Baby Don't Scold Me" をこの曲と入れ替え、ファースト・アルバムを再リリースした。"For What It's Worth" は最終的に100万枚を売り、ゴールドディスクに輝いた。

BUFFALO SPRINGFIELD・・・USA 1st Press ATCO 33-200 MONO

BUFFALO SPRINGFIELD・・・USA 2nd Press ATCO 33-200A MONO

BUFFALO SPRINGFIELD・・・UK 1st Press ATLANTIC 587070 MONO

BUFFALO SPRINGFIELD・・・USA 1st Press ATCO SD 33-200 STEREO …PURPLE BROWN LABEL

在籍中から衝突を繰り返したスティルスとヤングだが、のちにスティルスが作ったCS&Nにヤングが参加し、CSN&Yが誕生することになる。そこでも2人は対立し、グループの解散の原因となったが、その後もさまざまなかたちで2人は共演している。
ジム・メッシーナは解散間際の参加であったが、リッチー・フューレイと意気投合、2人が中心になってポコを結成する。結成メンバーには、後に脱退してイーグルスを結成するランディ・マイズナーがおり、マイズナー脱退後、後任としてポコに加入したティモシー・B・シュミットは、マイズナーがイーグルスを脱退すると、またしてもマイズナーの後任としてイーグルスに加入した。
メッシーナはポコ脱退後、ケニー・ロギンスとのコンビ、ロギンス&メッシーナを結成。
ヤングは、2000年のアルバム Silver & Goldで かつてのバンド仲間との再会を願う "Buffalo Springfield Again" という曲を披露した。しかし2004年10月1日にブルース・パーマーが、2009年1月31日にはデューイ・マーティンが他界したため、オリジナル・メンバーでの再結成は不可能となった。