32回目の曲目

ビートルズがカバーした曲のオリジナル曲集、第4回目です。今回からビートルズの曲も紹介します。

セプティンバー・イン・ザ・レイン・・・ ダイナ・ワシントン

セプティンバー・イン・ザ・レイン・・・ ビートルズ

ヒー・テイクス・グッド・ケア・オブ・ユー・・・ キャロル・キング

テイク・グッド・ケア・オブ・マイ・ベイビー(サヨナラ・ベイビー)・・・ボビー・ヴィー

テイク・グッド・ケア・オブ・マイ・ベイビー・・・ビートルズ

クライング・ウェイティング・ホーピング・・・バディー・ホリー

クライング・ウェイティング・ホーピング・・・ビートルズ

ベサメ・ムーチョ・・・ジョセフィン・ベーカー

ベサメ・ムーチョ・・・コースターズ

ベサメ・ムーチョ・・・ビートルズ

サーチン・・・ コースターズ

サーチン・・・ ビートルズ

ラブ・オブ・ザ・ラブド・・・ ビートルズ

ハロー・リトル・ガール・・・ ビートルズ

アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア・・・ ビートルズ


ビートルズ デッカ・オーディション

1962年1月1日月曜日午前11時。大晦日の前夜から吹雪の中をロンドンまでたどり着いたビートルズは、ウエスト・ハムステッドのデッカ・スタジオでデッカの担当者マイク・スミスに待ちぼうけを喰らっていた。当時の英国では元旦は公休日ではなかった。
徹夜の新年会で遅れて来たスミスはビートルズの持ち込んだアンプ類の使用を認めず、スタジオの機器を使い待望の「オーディション」は始まった。
それは一般的に想像される生演奏を審査してのオーディションではなく、「権限のある」デッカ社内の人間に聞かせるためのサンプル・テープの録音であった。
「ライク・ドゥリーマーズ・ドゥ」に始まる新任マネージャーのブラインア・エプスタインが選んだ曲目を、1曲ずつ、一発録りで収録していく形で進められたが、極度の緊張のあまり演奏やハーモニーをあわす事ができず、「夕日に赤い帆」、「プリーズ・ミスター・ポストマン」等、途中でやめてしまった曲もあった。
それでも最終的に15曲を録音し終えることができたビートルズだったが、余韻か感慨に浸ることは許されず、次のバンドのオーディションの予定時間が過ぎているという理由で、さっさとスタジオを追い出されてしまった。
期待をして朗報を待ったビートルズだったが、試聴用アセテート盤も作って関係者で審査したデッカの出した回答は不合格。怒り心頭で交渉に当たったブライアンもけんもほろろなデッカの対応にあきらめざるを得なかったが、この時の録音を2本に分けて収録したリール・テープを貰い受けることができた。ブライアンはそのテープを使って他のレコード会社にも売り込みをかけて行ったのだが、オープン・テープを扱いやすいように78回転のデモ・ディスクを作る過程で、オリジナル曲の版権の話からパーロフォン・レーベルのジョージ・マーティンに話が繋がり、そのディスクにより初めてビートルズを聞いた彼は感ずる所があり直接会う約束をした…。

■DAWN OF THE SILVER BEATLES
1981年4月2日にPACレコードが発売したものの、ライセンスの問題で即回収になったレコードです。
ジャケットのみならずレーベルにまでナンバーが記載されています。
デッカ・レコードのオーディションで演奏された全10曲を収録。




■THE SILVER BEATLES ・・・THE ORIGINAL DECCA TAPES
1962年1月1日のデッカ・レコードのオーディションの模様を収めたものです。
Lennon/Mccartney作の『Like Dreamers Do』『Hello Little Girl』
『Love Of The Loved』など演奏された全15曲を収録。
オリジナル曲の3曲を除いた12曲を収録した正規盤も発売された。
アナログ・レコード盤は帯のせいでピート・ベストの顔が見えないとは・・・



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1.September in the Rain・・・Dinah Washington

1937年の『Melody For Two』という映画の挿入歌で、俳優ジェイムス・メルトンが歌っていた曲。ポールはダイナ・ワシントンのヴァージョンをカバーしている。ダイナ・ワシントンはデビュー曲『Blow Top Blues』(ライオネル・ハンプトン楽団)が素晴らしいが、この曲も立派です。

2.September in the Rain・・・The Beatles

リード・ヴォーカルはポール、かなり荒っぽい演奏となっている。両親の影響でポールはロックンロールではないスタンダード曲が好きで、レパートリーは広く、その後の作曲にも顕著に表れている。

3.He Takes Good Care of You・・・Carole King
4.Take Good Care of My Baby・・・Bobby Vee
5.Take Good Care of My Baby・・・The Beatles
ノース・ダコタ出身のボビー・ヴィーは地元でバディー・ホリーのライヴを心待ちにしていたが、同地に向かう飛行機が悪天候で墜落してしまう。バディー・ホリー、ビッグ・ボッパー、リッチー・バレンスの3人は逝った。バディー・ホリーの活躍はわずか3年であった。ドン・マクリーンの『AMERICAN PIE』でも歌われている59年2月2日は『ロックンロールの死んだ日』と言われる。
ボビーはバディー・ホリーの意を継ごうとTHE SHADOWSというバンドを作りデビューした。その時にバンドメンバーとしてピアニストを募集したところRobert Allen Zimmermanと名乗る男が現れたが、採用はされなかった。後のBob Dylanである。
この曲は当初ディオンがアルバム用にレコーディングしていたが、シングルリリースはしないというので、即、ボビーに吹込ませると何とシュレルスの『Will you Still Love Me Tomorrow』につぐGoffin-Kingの全米第1位となった。


6.Crying,Waiting,Hoping・・・Buddy Holly
7.Crying,Waiting,Hoping・・・The Beatles

眼鏡にスーツという出で立ちは、一般の大人しい若者を中心に受け入れられたが、1959年2月3日未明、ツアー公演中の移動のために搭乗したミネソタ州ムーアヘッド行きのチャーター機(ビーチクラフト ボナンザ35、機体記号N3794N)が、吹雪のために方向を失ってアイオワ州セロ・ゴード郡のトウモロコシ畑に墜落し、ホリーは死亡した。同乗していたミュージシャンのリッチー・ヴァレンスとビッグ・ボッパー、そしてパイロットを含めた4人全員が死亡した。ホリーは、このときわずか22歳(ヴァレンスに至っては17歳)であった。このツアーの終了後、クリケッツと活動を再開する予定となっていたが、果たされなかった。3人のロックンローラーが一度に死に、ファンに衝撃を与えたこの日は、後に「音楽が死んだ日」と呼ばれるようになった。
墓石には、愛用したストラトキャスターの形が刻まれている。
ホリーは死の直前に6曲のデモテイクを録音しており、死後にクリケッツによってオーバーダビングが行われた「クライング、ウェイティング、ホーピング/ペギー・スーの結婚」がリリースされている。
クリケッツの音楽を聴いたプロモーターが黒人と間違えて、当時、黒人エンターティナーの殿堂ともいえるアポロ・シアターへの出演を依頼した。ホールに着いた彼らを見て、プロモーターは慌てたが、すでにどうすることも出来ず、仕方が無く、そのままステージに立った。観客は彼らを見て戸惑ったが、演奏が始まると、彼らを受け入れ、好評の内にステージは終了し、結果として彼らは、アポロ・シアターに出演した最初の白人ミュージシャンとなった。
ビートルズの前身バンド、クオリーメン結成後初めてのレコーディング(1957年)で前述の「ザットル・ビー・ザ・デイ」を取り上げるなど、アマチュア時代には、ホリーの楽曲を多くレパートリーにしていたのに、公式にカバーしたのが「ワーズ・オブ・ラブ」のみというのは、「ホリーの曲は特別好きなものだから、彼に敬意を表するためにあえてカバーしないようにする」という取り決めがあったから、という説がある。プレスリーの楽曲も同様の理由で公式カバーされていないのだと思われる。

バディの独特な歌唱法、バディ節は、その後日本において坂本九によって受け継がれたという(奇しくも彼もバディ同様、飛行機事故で命を落とすことになる)。坂本の代表曲で世界的大ヒット曲「上を向いて歩こう」の「ウォウウォオウ」というフレーズを導入したのは坂本本人と言われる。



8.Besame Mucho・・・Josephine Baker
9.Besame Mucho・・・The Coasters
10.Besame Mucho・・・The Beatles

『ベサメ・ムーチョ』(Besame mucho)は、スペイン語の歌で、1940年にメキシコのコンスエロ・ベラスケス(Consuelo Velazquez)によって書かれた。 彼女はこの曲を、16歳の誕生日前に作った。
初めて『ベサメ・ムーチョ』をレコーディングしたのはエミリオ・トゥエロだが、古今の歌の中で最も多くレコーディングされた歌はこの曲だと信ずる人もある。

ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker、1906年6月3日 - 1975年4月12日)は、アメリカ・セントルイス出身のジャズ歌手・女優である。フランス語読みで「ジョゼフィーヌ・バケル」とも呼ばれる。
生まれたときの名前は、フリーダ・ジョセフィン・マクドナルド(Freda Josephine McDonald)。1937年、フランス国籍を取得している。「黒いヴィーナス」の異名をとった。
彼女のキャリアは、16歳でフィラデルフィアのスタンダード劇場でのデビューから始まる。その後すぐニューヨークに行き、ちょうど半年間アメリカを巡業していたボードビル・グループに参加。1923年-1924年、ニューヨークのでミュージカルコメディ「シャッフル・アロング(Shuffle Along)」でコーラスガールの役を得、その後、黒人のレビューグループ、チョコレート・ダンシーズ(The Cholocate Dandies)のメンバーとなる。ニューヨークのプランテーション・クラブに出演した後、1925年10月2日、パリのシャンゼリゼ劇場に出ていた「レビュー・ネグロ(黒いレビュー)」に加わることになる。
このダンスで彼女は、初めてチャールストンを目の当たりにしたパリの観客たちの心をたちまちにして我が物としてしまう。アンドレ・レビィンソン(Andre Levinson)は、「ジョセフィンは、不恰好な黒人のダンサーだとか思ったらとんでもない間違いで、彼女こそ詩人ボードレールが夢に見た褐色の女神」と熱狂して賛辞を送り、アーネスト・ヘミングウェイは「これまで見たことのある最もセンセーショナルな女性」と称えた。
ベーカーは、ヨーロッパの貴族の称号を持つことになった初めてのアフリカ系のアメリカ人女性ということになった。建築家のアドルフ・ロースは1928年にベーカーのために白黒の大理石の正面玄関を持つ家を設計した、もっともそれは実際に建築するまでには至らなかった。想像を超えたエロティックな衣装と踊りのためにベーカーは、ウィーン、プラハブダペスト、そしてミュンヘンの劇場では出演を禁止されるに及ぶ。それほどまでにベーカーはセンセーショナルな存在になったのである。



11.Seachin'・・・The Coasters
12.Seachin'・・・The Beatles

The Coasters は50年代の後半にロックンロールのプリンスとして登場した。54年に Jerry Leiber・Mike Stoller の書いた Hound dog が Big Mama Thornton によって大ヒットする。この成功で二人は自身の Spark を設立し、当時 RCA に在籍していた The Robins を迎える。Jerry Leiber・Mike Stoller の二人はすでにグループに多数の曲を書いていたこともあり親交は深かった。55年11月にリリースした Smokey Joe's cafe が Atlantic の注意を引き、56年 Spark は、The Robins のマスターを Atlantic の新しい子会社 Atco に売却、The Robins の新しいレコードは以降 Atco からリリースされることとなる。Carl Gardner・Bobby Nunn 以外のメンバーは移籍に反対し、その後もThe Robbins として活動を続けた。
移籍したCarl Gardner・Bobby Nunn は、Leon Hughes(50年に The Hollywood Four Flames、53年にThe Lamplighters に在籍していた)・Billy Guy(55年に Bip and Bob に在籍・Alladin)を加え、当時、ウエストコーストに住んでいた事から The Coasters と命名した。Jerry Leiber・Mike Stoller はこうして自分達の歌を最大限にひきだせるグループを獲得、The Robins の Riot in cell block #9 のように、The Coasters は Yakety yak といった、若者の日々を歌って次々とヒットを生む事となる。グループ最初のシングル Down in Mexico は、薄汚れたバーの片隅でレコーディングされたという。2月25日付のビルボード誌で「ここに新しい、そして見事にスイングするシングルが登場した。彼らの Down in Mexico の魅力もさることながら、もう一方のサイド Smokey Joe's cafe も大いに称賛に値する」と熱狂的にレビューした。
また3月17日付の同誌のベストバイリストでも「このシングルは、ピッツバーグ・バルチモア・バッファロークリーブランド・シカゴ・ナッシュビルアトランタセントルイスなど広範囲にわたる地域のR&Bとポップスの両チャートで優秀な反応を得ている」と書かれた。 Down in Mexico は4月までにビルボードのR&Bベストセラー・ディスクジョッキーチャート第9位・ジュークボックスチャート第8位となった。続く Brazil が56年9月にポップチャート第72位・R&Bチャート第11位を記録し、ポップチャートに初めて The Coasters の名前が載った。 グループはロサンジェルスを拠点として活動していたが、この時期から長期間のツアーを開始し、この年はニューヨークでのレコーディングを行っていない。 57年2月12日にスタジオに戻ったグループは、彼等のキャリアの中でも最も素晴らしい2つの歌をレコーディングする。
ポップチャート第8位・R&Bチャート第2位となった Young blood とその裏面の Searchin'(ポップチャート第3位・R&Bチャート第11位)である。黒人グループがシングル両面でポップチャートにランクインするのは、The Miles Brothers が49年に I love you so much it hurts(第8位・B面は I've got my love to keep me warrn・第9位)で4つのミリオンセラーを獲得して以来のことであった。

13.Love of the Loved・・・The Beatles
14.Hello Little Girl・・・The Beatles
15.I Saw Her Standing There・・・The Beatles


オリジナルの『ラヴ・オヴ・ザ・ラヴド』『ハロー・リトル・ガール』は間違いなく、デッカ・オーディションで歌われた曲です。『ラヴ・オヴ・ザ・ラヴド』は出来も良く、後に、ビートルズと同じEMI Parlophoneからデビューするシラ・ブラックのデビュー曲となった。
『アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア』は同時期の録音でおそらくキャバーン・クラブでのリハーサル・テープだと思われます。テープ・スピードが若干遅いようで、オフィシャル音源(ファーストアルバム)と較べるとノリが非常に悪い。