86回目の曲目

シスコ・サウンドの特集です。

1.夢のカリフォルニア・・・ ママス・アンド・パパス

2.花のサンフランシスコ・・・ スコット・マッケンジー

3.サムワン・トゥ・ラヴ ・・・グレート・ソサエティ

4.ホワイト・ラビット・・・ ?ジェファーソン・エアプレイン

5.アイ・ニード・マン・トゥ・ラヴ・・・ ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー

6.モナ・・・ クイックシルバーメッセンジャー・サービス

7.ボンベイコーリング・・・ イッツ・ア・ビューティフルディ

8.ハイ・コイン・・・ チャーラタンズ





1.夢のカリフォルニア・・・ ママス・アンド・パパス





ママス&パパスが、元々はニューヨークを中心に活躍していたフォーク・アーティストたちの集まりであり、彼らの大ヒット曲「夢のカリフォルニア」は、そんな彼らが暖かな土地カリフォルニアにはせた思いが生んだ曲だということは意外に知られていません。
実は、彼らは当時まだ未発達だったウェスト・コースト・ロックの開拓者であり、花飾りを身につけて西海岸を目指したヒッピーたちの先駆者でもあったのです。その意味で、彼らはまさに「フラワーピープルにとってのママス&パパス」だったわけです。
しかし、そんな彼らはヒッピー世代のコミュニティーが60年代末に夢破れ崩壊していった過程さながらに、70年代にはいるころには内部崩壊し、この世から姿を消してしまいました。
夢のカリフォルニア」は、まさに夢の理想郷「失われた60年代カリフォルニア」への思いを込めた望郷の歌であり、鎮魂の歌なのです。



2.花のサンフランシスコ・・・ スコット・マッケンジー


サンフランシスコに来て1965年に大ヒットした「夢のカリフォルニア」です。これはメンバーのジョン・フフイリップスが作りましたが、ニューヨーク時代の仲間であるスコット・マッケンジーのために作曲した「花のサンフランシスコ」が1967年にこれも大ヒットしました。スコット・マッケンジーは後年、ビーチボーイズの「ココモ」の作詞・作曲をした人物ですが、(バンドの一員であるマイク・ラヴ、バンドと関係の深いプロデューサーのテリー・メルチャー、元ママス&パパスのジョン・フィリップス、シンガーソングライターのスコット・マッケンジーの4人が共作した楽曲。)ギラン・バレー症候群で亡くなりました。


3.サムワン・トゥ・ラヴ ・・・グレート・ソサエティ


シグニ・アンダーソンの後任としてエアプレインに加入することになるグレース・スリックは、その前月までグレート・ソサエティのメンバーとして活動していた。65年8月13日に“The Matrix”でエアプレインのデビュー・ステージを見て感銘を受けたグレースは、すぐに夫のジェリー・スリックや義弟のダービー・スリックと一緒にグレート・ソサエティを結成した。グレースとジェリーは幼なじみで、61年8月26日に結婚している。グレースはまだ21歳であった。グレート・ソサエティの演奏音源は、スタジオとライヴを合わせいくつかのものが残されているが、最初にレコード化された“The Matrix”での66年6月のライヴが内容的にやはり一番充実している。「Someone To Love」(「Somebody To Love」の原題)もこのライヴのものが最も素晴らしい出来だ。グレースの歌声は力強いがとても繊細で、独特のシャウトは愁いを含んでいる。ダービー・スリックのギターは派手さはないが、フレーズは洗練されていてセンスを感じさせる。グレート・ソサエティが解散コンサートを行ったのは66年9月11日。ダービー・スリックとピーター・ヴァン・ゲルダーがインドに音楽修行に行くことを決めたことが解散の最大の理由だったという。エアプレインの中ではちょうどシグニ・アンダーソンが脱退を申し出た頃で、後任を探そうとしていた時にグレースがフリーになったことは願ってもないチャンスであった。エアプレインを代表して、解散の後すぐにグレースのところへ行き加入を口説いたのはジャックだった。そして、グレースはスンナリと承諾したという。



4.ホワイト・ラビット・・・ ?ジェファーソン・エアプレイン







67年にアレックス・スペンサーとグレイスを加えたセカンド・アルバム「シュールリアリスティック・ピロー」を発表。すると、ここからシングル「サムバディ・トゥ・ラヴ〜あなただけを」が全米3位、「ホワイト・ラビット」が全米8位と大ヒットを連発。この2曲はいずれもグレイスの前バンドからの持ち歌であり、新入りとしては、たいへんな手みやげとなった。
これで、一躍全米のスターとなった彼らは、モンタレー・ポップ・フェスティバルへ出演するなど、さらに活躍の場を広げ、すかさずサード・アルバムもこの年に発表している。

内田氏談 : JAのアルバム・カバーはなかなか凝ったものが多いと思いますが、日本で発売されたGolden Albumは、ジャケットもさることながら、レコード盤が素晴らしいですね。当時、東芝レコードのエバークリーン、赤盤は有名ですが、このGolden Albumは何と紫・赤・黄色などのカラフルな色でプレスされていてビックリしました。スリーヴの表面下半分は、メンバーの写真をネガではなくて、ポジを緑色で持って来て、更にグループ名やタイトルの字体と配色が、いかにもサイケデリックな雰囲気を醸し出していました。収録曲もよいので、持っておきたい1枚です。ただ、今はプレミアムが付いて、高いです。



5.アイ・ニード・マン・トゥ・ラヴ・・・ ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー





ヘイト・アシュベリーを中心としたヒッピーたちの間で際立って目立っていた彼女は、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに参加する。バンドは、独立系レーベルのメインストリーム・レコードと契約し、1967年にバンドの名を冠したアルバムを発表したが、売れ行きは不調でレコードは早々に倉庫にしまい込まれた。
しかし、このバンドはモントレー・ポップ・フェスティバルにおける演奏で大きな注目を集めるようになった。ジョプリンは、ビッグ・ママ・ソーントンの「ボール・アンド・チェイン」を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた1968年のアルバム『チープ・スリル』では以前に増して生々しい歌声を披露し、その評価を決定づけることになった。スタンダード・ナンバーをブルース風にカバーしたサマータイム (楽曲)や、前述の「ボール・アンド・チェイン」等、迫力のある歌が多く収録されている。



6.モナ・・・ クイックシルバーメッセンジャー・サービス

米国盤

英国盤

仏蘭西


クイックシルバーは1964年サンフランシスコで結成されたバンドだ。69年には彼らの魅力を伝えるべく、セカンド・アルバム「Happy Trails」をライブ盤としてリリース。このアルバムでは、“普段”の彼らの魅力が存分に発揮され、一気にファンを増やすことに成功した。またジョージ・ハンターによるジャケットも話題になったこともありセールス面でも成功を収めた。いまでもファンの間では、このアルバムを最高傑作にあげる人も多いのも納得できる。



7.ボンベイコーリング・・・ イッツ・ア・ビューティフルディ


米国オリジナル盤

米国サンフランシスコ・レーベル盤



日本盤


69 年発表の第一作「It's A Beautiful Day」。ジャケはジョージ・ハンター。オルガンやヴァイオリンによるクラシカルなアレンジが効いている。 この辺りが、昔からプログレ・ファンに訴える理由だろう。テーマは、ほとんどパープルの「Child In Time」

内田氏談 : グループ名が単語でなくて、短い文章というのもユニークでした。彼らのアルバムで、68年にアメリカでリリースされた、グループ名をタイトルにしたアルバムは、青空と白い雲をバックに、女性が岩の上で風に吹かれている構図でした。これは、クロード・モネが描いた、彼の奥さんと言われていますが、日傘をさした女性が草原で風に吹かれている作品を思い起こさせます。アルバムのアメリカ原版はゲートフォールド、見開きになっていて、内側の写真も秀逸でした。音楽を聴きながら、レコード・スリーヴも鑑賞するという、ちょっとCDやハイレゾでは味わえない、贅沢な楽しみ方が出来るレコードの1枚だと思います。



8.ハイ・コイン・・・ チャーラタンズ


チャーラタンズです。全く無名のバンドですが、Mike Wilhelmは60年代のサンフランシスコで最初のサイケデリック・バンドと言われていたthe Charlatansのギタリスト。
1965年頃から活動していたthe Charlatansは、30年代から抜け出て来たようなカッコをして、R&Rをかっ飛ばす最高に「ヒップ」なバンドでした。ダン・ヒックスがドラムとボーカルでした。ボーカルとオートハープのジョージ・ハンターは初期のサイケデリック・ポスターを書いたりしていました。(あの有名なクイックシルバーの馬にまたがった『Happy Trails』のジャケットもジョージ作です)グロヴ・プロパガンダの主宰者です。 今は亡くなってしまいましたが、ピアノのマイク・ファーガソンはヘイト・アシュベリーに最初のヘッド・ショップを作った人物でした。デッド、ジャニス&ビッグブラザークイックシルバー、モビー・グレイプ、ジェファーソン、、みんな仲良かったみたいです。ヴァン・ダイク・パークスの曲です。